「命の大切さ」を考えるなら - 赤木智弘
※この記事は2014年08月02日にBLOGOSで公開されたものです
長崎県の佐世保市で、女子高生が同級生を殺す事件があったそうだ。佐世保といえば、2004年に小学生による同級生殺害事件があり、それ以降、命を大切にする教育に努めていたそうだ。(*1)
事件に対する僕の率直な感想は「ああ、そういう事件があったのね」だ。
これはすべての殺人事件に対する、僕の基本的なスタンスで、殺人事件に関しては個別事例であり、社会の潮流とは何の関係もないので、気にしないことにしている。
こうしたニュースでお金を稼ぐ人の多くは、こういう殺人事件を財宝の詰まった宝箱のように考えて、被疑者の身の回りを調べ、子供の心の闇がど うの、最近の若者はおかしくなっているとか、そういうことを書き立てる。こうしてテレビや新聞、そしてアフィ……おっと、まとめサイトなどで毎日のように報じられていると、さも大事件が起きているかのように錯覚させられてしまう。
それだけならまだしも、錯覚の挙句に、意識の高い人たちが「殺人をなくすためにはどうしたらいいか」などという、喧々諤々の議論を始めてしま う。しかし、僕から言わせてもらえれば、そこで産まれた考え方がどれだけ素晴らしいように見えても、結局は錬金術に等しいでたらめだ。殺人を防ぐことなんてできるはずもない。
殺人は極めて例外的な行為であり、その理由はすべて「個別の理由」という他ない。単なる快楽殺人があれば、長年にわたる恨みの末の犯行もあり 、その理由は多岐に渡る。つまり、殺人には統一的な防止策というものがない。人間が人間と接する以上、何らかの理由で殺人は起こりえるのである。
もし、本気で子供による殺人や、子供が殺害されることを完全に防ぎたいのであれば、対処法は極めて単純だ。とにかく、子供を密室に閉じ込めて 、完全に隔離した形で生活させればいいのだ。
もちろん親との接触も禁止だ。子供が殺害される事件の多くは親や兄弟、親類縁者といった身内の犯行であるのだから、一切誰とも接触させてはな らない。
そうするのでなければ「殺人を抑止する」などという妄想のようなことは、やめるべきだ。人権教育も心の教育も、殺人抑止という点においては等しく意味が無い。
そんな無意味なものに金や時間をかけ、学校に子供たちを閉じ込めたからこそ、今回の事件が起きたのではないだろうかと邪推もしたくなる。
命の大切さを考えるなら、殺人という個別事例ではなく、毎年3万人前後の自殺の問題や、社会保障の欠如。再分配の不全による格差社会化など、 システムを変えることでハッキリ改善できることこそ、ちゃんと考えるべきである。
しかし、1時間でも早く終わらせなければいけない仕事があるときに限って、つい窓の外を眺めてしまうようなもので、我々が殺人のような改善できない個別事例にばかり目を向けてしまうのは、改善しうるシステムの改修をサボりたいという気持ちの現われなのだろうなと、僕は思う。
*1:また悲劇、長崎県「命の教育」届かず(YOMIURI ONLINE)
http://www.yomiuri.co.jp/national/20140728-OYT1T50044.html