差別の思想では表現は守れない - 赤木智弘
※この記事は2014年07月20日にBLOGOSで公開されたものです
自分の女性器の3Dデータをウェブサービスにアップロードして、不特定多数がダウンロードできる状態にしたとして、芸術家のろくでなし子さんがわいせつ電磁的記録頒布の疑いで、逮捕、勾留された問題。(*1)まず、自分の主張を明確にしておくと「わいせつ電磁的記録頒布」という部分については、限りなく黒に近く、逮捕にまで踏み切ったことを考えれば、どのように抗弁しようとも、これが白になるとは思えない。
一方で、彼女を勾留する必要があったとは全く思えず、また3Dデータの女性器に問題があるとしても、そこから派生して制作された作品などは加工され、意匠性があることから女性器そのものではなく、わいせつ物であるとは考えられない。
故に、書類送検のみであれば「まぁ、運悪く目をつけられたんだね」と思えても、逮捕勾留や、今後の活動に支障をきたすような物品の押収は、パフォーマンスが行き過ぎた捜査であり、十分に不当であると考えている。
と書いていたら、弁護士側の準抗告が認められ、検察の勾留請求が却下され、ろくでなし子が釈放されたようだ。問題は残っているとはいえ、ひとまず不当な状況が改善されたようで何よりである。
話を進めよう。まず、「わいせつ電磁的記録頒布」という部分。僕が限りなく黒に近いと考えているという理由で、一番わかり易いのは、それが写実的であるということである。
今回は3Dデータという特殊性はあるにしても、JPEG(画像データ)であろうが、MPEG(動画データ)であろうが、そこに性器が無修正で写っていて、それを不特定多数に頒布すれば違法である。それがたとえ3Dデータでも同じことだと僕は考えている。
中には「3Dプリンタはあまり普及していないから容易に再生できるとは言えず、無罪である」と主張する人もいる(*2)そうだが、たとえ3Dプリンタが無くとも3Dデータを扱うCADソフトを利用すればパソコン上で擬似的な3Dとして、その形を閲覧できるのだから、容易に再生できるといえよう。 また、ネット上では神奈川県川崎市の金山神社で行われる「かなまら祭り」で、男性器がシンボルとして使われていることを指して「かなまら祭りの男性器はいいのに、女性器はダメなのか」として比較されているようだが、かなまら祭りの男性器は決して写実的ではなく、あくまでも男性器を示す記号として扱われているのに対し、今回のろくでなし子の女性器の3Dデータは、決して記号化した女性器ではなく、彼女の女性器そのものであるがゆえにアウトであると考えられる。
もし仮に、僕が自分の男性器のデータを出資金を募って頒布したとすれば、彼女と同じように罪に問われてもおかしくない。別に男性器だから女性器だからという点で、警察の判断に違いがあるとは思えない。
また、ろくでなし子の作品が芸術であるか否かという点についても、僕はそこに論点があるとは考えていない。つまり、芸術であろうがなかろうが、わいせつ物と認定されるべきものはわいせつ物と認定されるのであり、芸術であることはわいせつ認定を逃れるための言い訳にはならないだろう。
以上のように、僕としては今回の問題はとてもシンプルだと考えている。「無修正の性器のデータを頒布してはダメ」ということでしかない。
もちろんこれに対して「他にも無修正のデータはたくさんあるではないか」という反発をする人もいるだろうが、それは「あの車だってスピード違反をしている」という虚しい論理である。お目こぼし無くすべての無修正や薄消しが機械的に処分される社会よりも、目をつけられた運の悪い人が罪になる社会のほうがまだマシであろう。ここは現実主義的に考えたい。
だが、今回の逮捕が産みだした問題は、わいせつの判断や彼女が白か黒かという部分だけではない。
今回の逮捕を政治的意図を持ってイデオロギー表明のために利用しようとする人間が、大量に現れたのである。
特に僕が問題視しているのは、彼女が勤務しているアダルトショップの経営者である「北原みのり」の存在である。彼女はラジカルフェミニズムの観点から、アニメやマンガといったオタクメディアに対する表現規制を求める活動などを行っている人物である。
北原が今回の事件についての考えを述べている記事がある。(*3)
この記事でもっとも重要な点は
「今、私たちが議論するべきは、何が猥褻かではなく、誰が何を猥褻と決めているのかで、そして表現の「猥褻性」などではなく、「暴力性」「差別性」であるはずなのではないでしょうか。誰に向けられた暴力と差別の表現が許されているのか、なぜその表現がどのような文脈故に許されているのかの、検証ではないのでしょうか。」という部分であろう。
すなわち、彼女はろくでなし子の表現には暴力性や差別性がないから規制されるいわれはなく、一方でロリコン表現には暴力性や差別性があるから規制されるべきであるという考え方である。
しかし彼女は逃げている。この暴力性や差別性が一切合切「男性から女性に向けて向けられる」というありえない前提でしか事を論じていない。
少し話を変えるが、ろくでなし子の逮捕に対する準抗告が認められた7月18日。ろくでなし子本人と弁護士側による記者会見が行われた。僕もこの席に潜り込ませてもらった。
その記者会見が終わった後に、会場にいた、ろくでなし子と一緒に仕事をすることも多いという、男性器をモチーフとした表現を行うアーティストの女性とほんの少しだけお話をさせていただいた。
彼女は、男性器柄の靴下を履いていた。それは彼女の作品ではなく、一般的に販売されているものではあったが、それを履いていることに対して、「これには男性器を踏んづけているという意図がある」とおっしゃっていた。
ろくでなし子の表現は「自分の手足と同じように女性器を描く」ということで、そこにわいせつの意図(法的なわいせつの概念とは異なることに注意)がないということは、大変わかり易く明らかである。一方で、この女性の表現は男性に対する暴力性や差別性を含んでいることも明確である。ならば北原の考え方をそのまま女性に適用すれば、この女性の表現は当然、規制されるべきということになってしまう。
もちろん、僕はこの女性の表現が規制されるべきとは考えない。なぜなら、そうした暴力性や差別性を表現することも含めて、芸術の役割と言えるからである。また、そうした暴力性や差別性は法に触れない限りは許容されるべきである。暴力性や差別性という意図を規制することは、個人の思想の自由に、国家権力が土足で踏み込むことにほかならない。
北原の主張というのは、結局、暴力性や差別性という思想を警察の判断に委ね、それを一方的に判断し、規制していいとフリーハンドを手渡すものである。そのことの抑圧性に北原は気がついているのか、いないのか。
僕から見れば、北原の主張は酷く幼稚なものに見える。「私が問題だと思わない表現は規制されるべきではないが、問題だと思う表現は規制されるべきだ」という主張は、他人を鎖で縛りたいとするわがままである。さらに、その「私」が変化すれば、いくらでも自らを縛る鎖に変わる。それこそ、最近流行りの反ヘイトスピーチという「あいつのヘイトスピーチは規制されるべきだが、ヘイトスピーカーに対する私達のヘイトは許されるべきだ」といった主張と同質である。
しかし、そうした主張を支持する人が一定数いるということは、それだけ「私」の価値観が国家権力の価値観と一致している、一致しているのが当たり前と信じて疑わない人が増えているということであろう。僕はそうした勢力が増長していることは、一種の右傾化であり、危険な兆候であると考えている。
今回は北原の近しい人が逮捕勾留されたことから、北原に対して表現の自由を主張してほしいという意図で近づくメディアもあるだろう。しかし、彼女の意図することは、メディアの意図とは真逆の表現規制であり、また女性性を言い訳にした表現擁護、すなわち男性に対する性差別を積極的に行う人物であるということを意識する必要がある。
今回の件は「女性器だったから」「女性だったから」という文脈で語られ、警察の批判として利用されているが、喫緊の課題としては、あくまでも必要性のない逮捕勾留であった。今回、勾留が却下されたことから、今後はわいせつ基準の判断という点にシフトしていくだろう。
その過程でこれからもこの事件を政治的に利用したいとする勢力が、さも、表現者支援、表現規制反対派であるかのような皮をかぶって近づいてくるだろう。そうした勢力をきっちり切り分け、彼女自身が信じる表現を続けていくためにはどのように考えればいいのか、また、同時に彼女以外の芸術を志す人たちの表現を守るためには、どのように考えていくべきか。そのことを強く意識していきたいと僕は考えている。
*1:3Dプリンタで性器の造形を出力できるデータ配布 漫画家「ろくでなし子」逮捕(ITmedia ニュース)http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1407/14/news072.html
*2:「ろくでなし子」は「無罪」の可能性がある――わいせつ事件にくわしい弁護士が指摘(弁護士ドットコム)http://www.bengo4.com/topics/1791/
*3:ろくでなし子さんの逮捕に思うこと。(Love Piece Club 北原みのり)http://www.lovepiececlub.com/lovecafe/minori/2014/07/15/entry_005228.html