被災者だから特別扱いをするのではなく - 赤木智弘
※この記事は2014年03月08日にBLOGOSで公開されたものです
赤木智弘の眼光紙背:第313回
もうすぐ東日本大震災から3年が経つ。復興は徐々に進みつつあるが、今もなお避難生活を続けている方々も多い。
長期にわたる避難生活によって、肉体的精神的に疲労がたまったりした結果、亡くなってしまう「震災関連死」が、岩手、宮城、福島の3県合計で、2973人に登るという。(*1)
特に福島県では、地震や津波という直接被害で亡くなった方を上回る方が亡くなっているそうだ。
まず、ハッキリといえることは「避難は決してノーリスクではない」ということだ。
特にその土地に長く住んできた人であればあるほど、避難生活はストレスになる。一軒家に住んでいた人たちにとって、それこそプレハブの仮設住宅は、ストレスがたまりやすい環境であろう。
今もなお「原発事故で福島は汚染されている。とにかく引っ越せ」と主張する人たちがいるが、そうした強引な避難強要は、むしろ避難者の健康を損なう可能性があるということが、この震災関連死の記事をみると分かるだろう。
で、確かに震災関連死は残念なことではあるのだが、一方で釈然としない部分も残る。
つまり、震災という要因がらみで死んだ人の命には、いろいろな保証がかかるが、一方で震災と関係ない人の死に対して、行政は冷淡すぎるという部分である。
ともすれば、震災に巻き込まれた人の命だけが重要で、震災に巻き込まれたわけではないが、様々な理由で家を持たない人や、社会状況の変化によって精神を傷つけられた人の命が、蔑ろにされている気がするのだ。
それこそバブル崩壊後の長年に渡る不況は人災ではあるが、その責任は当時の大人にあり、それ以降に社会に出てきた若者たちに責任は無いのにもかかわらず、不況によるしわ寄せを受けるのは若者たちばかりであった。
それこそ不況を原因として死を選ぶ人も決して少なくない中で、そうした死には一銭もお金が出ないのに、震災の死だけに見舞金が出るのは、いささか不公平に思える。
いまだ避難生活が終わる目処の付かない方は多いし、時間が過ぎれば過ぎるほど、震災関連死の数は増えていく。震災関連死への特別扱いは、どこかで必ず摩擦を生むだろう。不公平だという声も、徐々に大きくなり、いつか被災者を批判の矢面に晒してしまう事態になるかもしれない。
そのような事態にならないうちに、この分断されている現状を是正していく必要がある。
具体的には、震災関連死という形で見舞金を出すのではなく、震災関係なく社会保障として、人の死に対して行政が遺族の負担が減るようなサポートを行うようにしていくべきなのである。
震災後に行われた被災者への扶助は、あくまでも一時的な扶助であり、決して持続性を考えた公平な制度ではない。
こうした制度を廃止しようとすれば「まだ困っている被災者がいる」という批判が起きがちだ。しかし単純に反発するのではなく、いずれ制度が廃止されるとしても、廃止後の受け皿となる、より公平で持続的な制度を作ることにこそ、力を注ぐべきではないだろうか
*1:被災3県、震災関連死3千人 福島では直接死上回る(朝日新聞デジタル)http://digital.asahi.com/articles/ASG364R8WG36UTIL07S.html