社会保障は行政の仕事です - 赤木智弘
※この記事は2014年03月01日にBLOGOSで公開されたものです
赤木智弘の眼光紙背:第312回
共同通信から、不思議な記事が配信されていた。「「社会保障は地域で」35% 互助の意識、醸成されず」(*1)というタイトルの記事だ。
調査内容ではなく、配信された記事のニュアンスが重要なので、必要な部分を引用させてもらう。
「日本生活協同組合連合会(日本生協連)の調査で、「社会保障は地域の人たちで主体的に支え合う方がよい」と考える人が35・0%にとどまることが25日、分かった。と記事には書かれている。
(中略)
政府は、超高齢社会の中で地域の生活支援などの実行役としてボランティアやNPOの参加を見込んでいるが、地域での「互助」への意識が十分に醸成されていない現状が明らかになった。」
「とどまる」「醸成されていない」という言葉によって、「政府による支援や給付」というイメージが強いことを否定的に扱っている。
この記事の元になった調査は昨年11月28日にリリースされた「社会保障調査(*2)」だ。
しかし、元の調査には記事にあるような「地域での「互助」への意識が十分に醸成されていない」という否定的なニュアンスは存在しない。一方で、社会保障に満足している人ほど、社会保障に「地域で支えあう」イメージを持っているというデータが並んでいる。
これを読み解くに、元データが示すのは、裕福な人ほど周囲の人間関係で生活が成り立っており、行政による社会保障を必要としておらず、その認識も薄い。一方で、社会保障を必要としている人には手当が行き届いておらず、行政に不満を持っている。という傾向である。
ところが、記事にはそのようなことは全く書かれておらず、「地域での「互助」への意識が十分に醸成されていない現状が明らかになった」と結論づけられている。
そもそも元データに「互助」などという言葉は使われていない。これは記者側の解釈に過ぎない。
社会保障とは、行政による再分配に他ならない。地域での助け合いなどをひとまずここでは「相互扶助」と呼ぶことにするが、相互扶助は社会保障ではない。両者は明らかにカバーできる範囲が異なる。
例えば、白杖を持っている人に声をかけて、少し道案内をすることは相互扶助である。私達がそのような手助けをすることは稀なことであり、行為による負担も小さい。時間に余裕があれば助けられるが、急いでいたら無視する事もできる。相互扶助はあくまでも、個人の良心に委ねられた一時的な助け合いだ。
一方で、目の見えない人にお金を給付したり、必要な施設を運営したり、点字の書籍を用意したりすることは、社会保障である。困っている人の生活を365日24時間サポートする義務を負い、決して無視することはできない。社会保障は継続的な支援である。
社会保障とは、憲法に記載された日本国が負うべき義務である。継続的な支援は決して個人の良心に委ねられるものではない。行政が制度として行うことでしか成立しえないのだ。
「お互いに助けあう」という言葉はそのイメージは良いのかもしれないが、結局のところは人間関係によって助ける人助けない人を選別する価値観でしかない。そのような価値観がはびこる社会では、都合の悪い人間は村八分にされ、嫁が人生を犠牲にして老人介護をする。そして貧しい人間は施しを求めて、金持ち庄屋に媚びへつらう。
互助を社会保障とみなす社会とは、要は単なる「ムラ社会」である。戦後日本は経済成長によってそのような姿を脱しつつあったのに、どうして今また、そのような誤った社会保障観が散見されるようになってしまったのだろうか。
この記事は共同通信の記事なので、多くの地方紙などでも配信されている。
これを読んで「行政に頼るとはけしからん。自分のことは自分で責任を持つべきだ」などと吹き上がる人たちもいるのだろう。これもまた日本社会にはびこる「自己責任論」という病の症例である。
*1:「社会保障は地域で」35% 互助の意識、醸成されず(47NEWS)
http://www.47news.jp/CN/201402/CN2014022501002228.html
*2:社会保障調査(日本生協連)
http://jccu.coop/info/press_131128_01_01.pdf