※この記事は2013年12月25日にBLOGOSで公開されたものです

撮影:和田まおみ 写真一覧
サービス残業の強制やパワハラ・セクハラなど労働基準法違反を取り締まる、労働基準監督官の活躍を描いたマンガ作品『ダンダリン一〇一』。竹内結子主演でドラマ化もされた、この作品は「モーニング」で連載中の『カバチ!!!』の原作者、田島隆氏によって生み出された(※「ダンダリン一〇一」での名義は「とんたにたかし」。作画は鈴木マサカズ氏)。今回、12月20日に「カバチ!!!」の最新刊が発売となったばかりの田島氏と、若者の労働相談に取り組むNPO法人POSSEの代表・今野晴貴氏による対談を実施。同作品が生まれた背景や日々注目度が高まっている「ブラック企業」問題について語ってもらった。(取材・構成:永田正行【BLOGOS編集部】)

「能力のない経営者は会社を経営してくれるな!」


今野晴貴氏(以下、今野):先日ドラマの放送が終了した「ダンダリン」ですが、僕も毎週録画して見ていました。この作品を描こうと思ったきっかけはあるのでしょうか?

田島隆氏(以下、田島):私の自伝『弱者はゴネて、あがいて、生き残れ!』の中でも書いたのですが、私は家庭の事情もあって15歳の頃に高校を中退し独立して生活してきました。高校中退という学歴だと、どうしても、社長一人に先輩と私といった零細企業を中心に勤める機会が多くなってしまいます。そういう零細企業では、昼休みなしのサービス残業なんてあたりまえでしたし、いざ会社が沈みかけると、問答無用で真っ先に一番若い従業員が切られる。そんな“ブラック”的な体質が普通でした。でも、当時は「余力のない零細企業だから仕方ないんだ」という社会的なコンセンサスがあったように思います。それが嫌ならば、大企業に勤めることができるような学力やキャリアを積み重ねろ、それができないのは自分が悪いんだ、というような空気だったんですね。

ところが、『ダンダリン一〇一』(以下、「ダンダリン」)という作品を構想し始めた4~5年前から、こうした状況が零細企業だけではなく、いままで労働者を守ってくれると考えられていた大企業でも当たり前になってきていると強く感じ始めたんです。

例えば、リストラと称して労働者をいとも簡単に切り捨てたり、新人を雇っておきながら、即戦力として役に立たなければ「おまえは使えない奴だ」という社内的ないじめをする。入社したばかりの何のキャリアもない、本来であれば教育して戦力にするべき人間を「使えない」といって罵るのです。そんな会社が大企業の中にも出てきた。これはちょっとおかしいんじゃなかろうか、というところが「ダンダリン」を産み出したきっかけです。

マンガはジャーナリズムではなくエンタテインメントなので、どうすれば読者に共感してもらい、この現状を訴えることができるのか、を考えました。当初は法律家を主人公にしようとも考えたのですが、法律家も結局のところ自営業者で、広い意味での経営者、労働者を使う側に立つわけです。ならば役人を主人公にした方が、多少なりとも中立になるだろうと考えて、労働基準監督官という隠れたヒーローにスポットを当てることにしました。

多くの読者が、その実態をあまり知らないけれど実は意外な権力を持っている労働基準監督官という存在。実際には、その権力の幅も狭かったりするわけですが、司法警察員として逮捕権だってある。そういう役人・役所もあるんだよということを伝えたかったんです。ここに駆け込めば、もしかするとなんかなるかもしれない。これをマンガの中で訴えていくことができないか。そんな気持ちで描いたのがこの作品なんです。

今野:正直、ドラマになると聞いたときに監督官が何でも助けてくれるみたいな話になるんじゃないかと懸念していました。でも、僕の目から見ても論点が整理されていて面白かったですね。ドラマの中で出てくる大きなポイントは2つで、「労働者のために会社をつぶしていいのか」と「嫌ならやめりゃいいじゃん」だと思うんですよね。

「会社を潰していいのか」という問いに対しては、多くの場合「どっちも大変だよね」みたいな感じで終わるのですが、「いや潰せ」と言うんですね。経営者の苦しみとかを引き受けながら、それでも全体のことを考えると潰すしかないんだと。労働条件を守れない会社というのはやはり悪なんだというメッセージがある。

あるいは、「嫌ならやめろ」という言説についても、そういう話じゃないんだというのを丁寧に説明していきますよね。

田島:その点は、私の別作品である『カバチタレ!』シリーズ(現『カバチ!!!』)で労働問題を取り上げるときにも意識しています。『ダンダリン』だけでなく』カバチタレ!』シリーズでも、経営者のところに主人公が乗り込んでいって、給料をちゃんと払えないブラック経営者とバトルをするといったエピソードがあるのですが、そこでも主人公達は「能力のない経営者は会社を経営してくれるな!」というわけです。『ダンダリン』を執筆する際に、特に意識していたのは、労働者を食い物にするような会社は潰しても仕方ないんだ、ということです。これは労働問題をテーマとするこの作品を描こうと思ったときから、はっきりと軸足として定めようと決めていました。

もう一つは、監督官がなんでもできるわけじゃないんだ、むしろやれないことの方が多いんだ、ということもきちんと描こうと考えていました。例えば、制度的な問題として人員が少ないから小さな事件まではなかなか手が回らない。監督官も人間であって、手一杯になると、労働者から相談を受けても「きっと、この程度の問題なら労働者にとってもたいしたことないだろ」と甘えてしまうケースもあるわけです。でも、そうした対応をしてしまうと相談した労働者は救われません。そういうジレンマを描こうと思ったんです。

今野:ドラマ化された後の反響はどうでしたか?

田島:私自身はマンガ原作者をしながら、行政書士の仕事もしているので企業からの相談も何件か受けたんですね。その中でドラマを見て、「こんな法律を守らなければいけないのか。実際には大半の会社が守ってないじゃないか」と言う方がいました。つまり、道路交通法で例えるならば、「制限速度50kmといっても、大半のドライバーはそれを厳密に守ってやしないだろう」と。「そんなので逮捕なんかされるのか」とおっしゃるわけです。そこは小さな会社でしたが、「どうやれば守れるか」ではなくて、「守らないといけないんですか」というところからスタートするんです。

こうした事例から、私は経営者側の労働法に対する意識の低さを感じました。ちょっとした速度超過や駐車違反と同じような感覚で、経営者が労働者を扱っていると思うとぞっとします。もちろん、例えに出した道路交通法も違反してよいというわけではありませんが。

今野:ドラマだと、「会社が潰れたらおまえの人生ないんだぞ」といって違法行為をみんなで隠すような文化があって、そこにメスをいれていくという部分が焦点化されてきますよね。あれは画期的だったと思いますよ。

田島:ドラマ『ダンダリン』では、私も脚本監修という形でプロデューサーさんとやりとりをしていたのですが、共通の問題意識としてもっていたのは、「そういった黙認状態は害悪なんだ」「なくしていく必要があるんだ」ということでした

労働問題を複雑にする“ブラック士業”


今野:僕も労働基準監督官の方と付き合いがあるのですが、人によって業務内容について言うことが結構違うんですよね。また、仕事に対する意識や、本音と窓口に出たときの対応もまったく違う。だから、「監督官」という仕事の全体像をつかむのは難しい。

たぶん主人公の段田凛のように正義感をもっている監督官もいれば、意識の低い監督官もいて、そういう人に対応されると本当にひどいです。最近僕が関わった事例では、証拠をもっていっても対応してくれない。弁護士と一緒にそのことについて抗議したところ「そうやって文句言うならば、あなたの事件は対応しない」などと言い出したんです。最終的には、厚労省の労働組合を通じて指導してもらって話はついたのですが、そういう問題のある監督官もいるんですよね。

田島:私が監督官の方とお話しする中で感じるのは、監督官は専門知識を駆使して担当した業務を処理していくという意味での“法律職人”だということですね。職人と言うのは人によって、方針ややり方が異なる上に、自分のやり方が1番正しいと信じてしまっていることが多いんです。これが客観的な観点からも労働者にとって良いやり方であればいいのですが、そうではないやり方を「自分は正しいんだ、お前たちに口を出される覚えはない」というスタンスを取る人が監督官にも我々法律家にも結構いたりします。

問題のある監督官にあたると被害者の救済にはつながらず、訴えを封殺してしまうことになります。被害者としては最後のよりどころだと思って駆け込んだにも関わらず、監督官が「そんなもん事件にできないよ」といってしまったら、被害者は心が折れてしまうでしょう。被害者の方に対して失礼な言い方ではありますが、監督官や法律家の存在は、乏しい知識や人脈の中で被害者がやっと見つけた救世主だったりするわけです。それなのに監督官や法律家がその手を振り払うようなことをしたら、絶望してしまいますよ。心が折れてしまって次の選択肢も探せなくなる。被害者の救済が、窓口で対応する監督官の個人的な資質に大きく依存しているのは、重大な問題だと思いますね。

今野:もう少し整理していくと、第一に一言で「労働相談窓口」といっても、それぞれの窓口にはそれぞれの法律上の役割がある。例えば弁護士に相談するのであれば、裁判あるいは労働審判が法律上の解決策になります。一方で、労働基準監督署では、労働基準法に基づく対応がなされることになる。

あるいは社労士も労働分野の専門家の一種ではあるのですが、彼らは基本的に保険業務などがより専門の中心を占めています。特定社労士などは、個別紛争について一定程度の専門性や権能は有しているのですが、それも民事手続き全体を担保できるレベルのものではない。このように「労働相談」と一口に言っても、誰がどんな役割を担っているのかが、「相談しようとする側」にはよくわからないんですよね。

それぞれの窓口に立つ人の専門性を考えていくと、労基署は労基署で独自のポジションを持っているんです。そのことが世の中にはあまり知られていないので、労基署に対する過剰な期待も生まれています。だから、「労基署に話しても何もならない」といった不満も耳にするのですが、労基署ってそもそも労基法の話しか対応できないというシビアな現実もある。

こうした「どの法律の専門なのかによって、窓口はぜんぜん違う」という前提があった上で、第二にそれぞれの専門分野の話すら本当にちゃんと対応しているのか、という話もでてくるわけです。

僕は彼らが何を意識して仕事に取り組んでいるのかが重要だと思うんですよ。例えば、社労士でも弁護士でも労基署の監督官でも、その人によって法律に対する意識というのは違うんですよね。

目の前の事務をこなすのが法を守ることだ、自分の職責だと思っている監督官もいれば、その労働者の人権を守るというレベルで考える人もいる。さらには、もっと広い視野で、労使関係の中で問題を考える人もいて、そうなると「労働組合」との連携という発想がでてきます。このように何を意識しているかで対応が違ってくると思うんですね。

田島:そうした考え方の違いは、被害者の救済という部分にも影響してきます。監督官も我々法律家も法律に基づいて事件処理をする仕事という点では同じなわけですが、法律を機械的に適用するだけであれば、それはもう法律事務のライン工場でしかない。そこで出て来た結論も画一的な通り一遍当のものにしかなりません。しかし、労働者の抱える悩みや苦しみ、目の前の現実、といった問題は一人一人で異なるんです。ライン工場で造られた既製品的な結論は、必ずしも労働者にとって良いものであるとは限りません。

話を法律家に絞りますが、そもそも社労士や弁護士、行政書士など法律家という資格の正体は、法的には営業許可に過ぎないんです。営業許可証に「○○士」という名前が付いているだけなのに、なぜ権威に感じる必要があるのか。「許可を持っていること」と「能力がある」ということとは、別の次元の話なんですよ。もちろん、営業許可にすぎないといっても、その許可を取得するには一定の法律的な能力が要求されます。その意味では、まったくの無能ではないのですが、やはり「○○士」という営業許可証に過剰な権威を感じるのは間違いなんです。

例えば、社労士であれば、社会保険の諸手続きについてはスペシャリストかもしれません。では労働契約法について、どれほど深い知識があるのか、という部分になると、個人の資質の問題になってしまうのです。労働契約法は民法の特別法であって、民法を前提として成り立っています。しかし、民法は社労士の試験科目には入っていないんですね。

しかし、特定社労士の実務では労働契約法上の問題もディープに扱うことになる。だけど、制度的な能力担保措置が存在していないのですから、その分野の能力については資格者個人の資質や自己研鑽に委ねるしかないんですよ。これは社労士に限らず弁護士や行政書士でも同じ話です。その意味では、有資格者といえども能力担保制度の存在しない法分野では一般の人と変わりはないはずなんですが、「○○士」という肩書きだけで盲目的にその分野の専門家だと権威づけられている実態がある。こういった問題点は相談をする労働者側からは見えてこないことですよね。

今野:僕は『日本の「労働」はなぜ違法がまかり通るのか? (星海社新書)』という本の中で、こうした問題を、「専門性」と「社会性」という2つの面から論じています。専門性という意味では、弁護士も社労士にも、「労働相談なんかあなたやっちゃいけないよ」というような、そもそも能力をもっていない人もいるんですね。小遣い稼ぎとしてやっているような人は、専門性という面で論外です。

一方で、いままでお話いただいたような「その労働者の権利を実現する」あるいは、「社会にとって、これがどんな意味があるのか」を考えられなければ、本当の意味での専門家じゃないですよね。これが「社会性」です。

さらに、これは『ブラック企業ビジネス(朝日新書)』という本で徹底して書いたのですが、「ビジネス」の論理が社会税を掘り崩すという側面もある。例えば、残業代の請求を行ってくれるのだけど、高額の成功報酬を労働者に請求したり、そもそも「お金になりそう」な、楽でたくさん儲かる事例の相談にしかのらないなんて言う場合もあります。

また、逆に経営側の無知に漬け込んで、めちゃくちゃな主張をさせ、いたずらに労使の対立を広げて「ビジネスチャンス」を作り出そうとする連中もいる。例えば残業代の未払いを扱う場合に、労基署が指導しても、裁判起こされても無視を決め込んで頑なに支払わなければ、たいていの労働者が諦めるんです。でも、揉めている間はずっと弁護士費用がかかる。そのお金だけが手に入ればいいと考える弁護士もいるわけです。

田島:確かにそういう事例を私も見知っています。懲戒解雇の事例であれば、地裁から最高裁で判決が確定する数年の間、給料の支払いを止めることで労働者を兵糧攻めにすることができます。労働者としては、その間別の企業で働くにしても、解雇を撤回させ前会社への復帰を求めて裁判中なわけですから、裁判に勝った場合を考えると正社員で雇われることもできませんし、雇う会社もまずないでしょう。かといって、バイトで雇われて数年後に裁判で負ければ、はたしていまさら正社員の口があるのか、年齢的にもどうなのか、という問題に直面することになります。これは労働者にとって大きなプレッシャーになるはずです。そうした事情につけこんで、ブラック士業は些細なことにも難癖をつけて裁判の長期化を狙うわけです。それから、おもむろに「時間を買え」といわんばかりに過酷な和解条件を出してくるのがひとつのパターンになっています。労働者としては、その和解案が毒饅頭だとわかっていても手を出さなければならなくなるという絵図なんですね。

ただ、彼らにも言い分があります。弁護士は、刑事被告人の弁護も職務としています。そこでは、例え99%被告人に非があっても1%の道理があれば、それを全力で弁護していく。それで少しでも被告人に有利な判決を勝ち取るわけです。人権という観点から、それは決して悪ではありません。むしろ彼らの職業倫理として強く要求されることだと思います。

すると、労働事件を経営者側から相談された場合でも、同様の職業倫理に拘束されると考える。例え、労働者にとって過酷な結果になろうとも、経営者の屁理屈に何とか法的な正当性をもたせることができないか、と考えるのです。端的にいってしまえば、ゴネられるだけゴネて、少しでも払う金額を減らすことができないかとなるわけです。そして、それを考えるのが、自分達の職業倫理だという考えを持っている方が弁護士だけでなく社労士や行政書士にも多くいるんです。

もちろん、こうした法律家の方一人ひとりには、大きな悪意も罪悪感もないと思うんですね。目の前の依頼者にとってはありがたい存在なのかもしれませんが、しかし、社会全体にとって果たしてよい存在なのか。この問題は、士業界全体の信頼問題につながっていく話しだと思っています。「ブラック士業」という言葉まで出てきているわけですから、これは我々士業界に対するイエローカードでしょう。

今野:法律相談に関する対応については、先ほど述べた相談者の「社会性」と関連して、もう一つ大きな論点があると思います。それは「労働者のためを思っての相談の仕方」ってどういうことなのかということです。

例えば、「ここで和解しておけば支払ってもらえるお金が多かったのに…」という状況になってしまうと、これ以上社会正義を追求する必要があるのか、という話になってきます。個別の事案は解決に向かっても、社会制度的には何も解決されない。会社の姿勢が改まることはなく、当事者一人についてはお金で解決したけれど、他の同じ立場の従業員は同じ状況におかれ続けるというような状況が出てきてしまう。では、「労働者のため」「相談者のため」というのはいったいどういうことなのか。これはすごく大きな論点として出てきますね。

田島:その問題は、法律家と相談者である労働者との間でも考え方の違いが出やすい部分ですよね。当の労働者がトコトンまで争いたいと思っても、法律家のほうが「争ってもいいけど損しますよ」「あなたも大人になって清濁併せ呑むべきだ」などといって、目の前のお金を取るよう説得しちゃうケースもあるんです。それが今野さんのいわれた意味での労働者のためになるのか。何が正解なのか。このことについて、真剣に考えたことがある士業の方がどれだけいるのでしょうか。私自身を含めて、法律職にある者は大いに考えるべき問題だと思います。

今野:先ほども触れたのですが、残業代未払いの場合、多いものだと一千万円ぐらいの案件があるので、100件案件を集めて高額の案件しか受けないというやり方をする弁護士もいるようです。残りの案件は、着手金だけとって内容証明を送っておしまい。後は払うか払わないかは知らないし、責任とる気もない。実際小額であれば裁判もできないですし、着手金だけ取りたいわけです。

しかし、これを僕が「ブラック企業ビジネス」という新書にまとめていくときに周囲から結構非難を浴びたんです。なぜなら「そうは言っても、請求できるんだからいいじゃないか。そういう弁護士がいなければ、請求すらできないだろ」と。同じように社労士は労基法上の手続きだけといっても、そういう社労士がいるから残業代だけでももらえる人がでてきているわけで、それが悪いということにはならないだろうという見方もあります。

でも、会社全体としては、100人いて1人しか争わないのであれば、その人にちょっとお金を払って和解しておしまい、という抜け道があることで、いつまでも99%が救われない。「個別解決」にとどまってしまうわけです。しかし、その一人にとってはせめてお金がもらえてラッキーという側面もある。会社全体、社会全体、という視点から不正義をただしていくのではなく、あくまで個人相手のビジネスの拡散なのですね。

そういう「社会性」の欠如の問題は、経営側弁護士にも言えます。例えば、ある弁護士は経営者向けの本に「自宅待機を命じると、世間から冷ややかな目に見られて精神的に追い詰めることができます」と書くんです。これは権利の濫用ですから明確に不法行為です。

こういう企業が増えることは、日本全体の経済にも絶対マイナスです。ちゃんと必要な手当てを払ってやめてもらえば、そのお金を元手に辞めた人間は訓練を受けたり、就職先を探すということで経済が回っていきます。それをブラック企業が得したいがために、うつに追い込んだりして、「安く辞めさせよう」とした結果、当人は病気になって働けない。その上医療費がかかる。得をするのはブラック企業だけで、そのつけは個人と社会全体に転嫁されるのです。国単位で考えれば、こんなバカバカしい話はないですよ。

大企業で残業代の未払いがなされているのであれば、真面目に残業代を払っている企業もたくさんあるわけですから、これは不正競争です。さらに、こうした風潮が世の中に広がっていくのであれば、生産性が下がります。人を奴隷みたいに扱って成り立つ会社というのは生産性が低いんです。良いことが一つもないですよね。

田島:いまの今野さんのお話しは、決して個別救済を否定する話ではなく、大きな目で労働者全体、社会全体を考えたときに戦略と戦術の区別をしよう、という話だと思いました。

第二次世界大戦で日本は真珠湾を奇襲攻撃して戦果をあげた。個別戦であるところの戦術としては大成功だったわけです。しかし、真珠湾攻撃によってアメリカが参戦し日本は惨敗したのですから、戦略としては失敗だったわけです。労働者全体の幸せを考えた場合、個々の戦術ではなくて、大きな戦略が必要だということでしょうか。確かに戦術というのはある種のサバイバル術、ゲリラ術みたいなもので、個々の局面では有効かもしれませんが、それだけでは労働者全体、国民全体の幸せにはつながらない。やはり全体の勝利を得るための戦略が必要だ、というご意見だと思いました。

“普通の人”が戦える土壌をつくることが重要


今野:ただ、大上段に構えて「社会改革」ばかりを唱えていると空理空論ばかりで、結局現実を動かせなくなってしまうんですよね。だから、個別救済と社会全体の改革の両方を、上手につなげていかなければなりません。

僕が代表を務めるPOSSEはNPO法人なので、どんな人からの相談にも対応します。自己都合に偽装されたので、雇用保険がもらえないといったケースが、僕らに相談に来るメジャーな相談です。彼らは保険さえもらえればよいわけです。争いたいという人たちは弁護士とか組合に行くので、僕らに相談に来るのは純粋に「助けて欲しい」という人なんですよ。

そういう人たちに対して、なるべく「裁判をしよう」「組合に入ろう」という話もするのですが、一方で「社会とか関係ない、自分の利益!」というスタンスの人も全力で手伝います。僕はいま「ブラック企業対策プロジェクト」という団体の共同代表も務めているのですが、こうした活動を通して事例が蓄積されていく。つまり、被害にあった人たちをつなげ、社会に問題を発信するために、私たちが「間に立つ」わけです。

一人ひとりのサバイバルに協力しながら、問題を社会につなげていく。個人の利益を代弁することが、結果的に国家・社会の在り方につながってくる。個人がいきなり国家やメディアを動かせるわけではありませんから、個人の利益と社会全体の利益をつなげるような中間団体が、民主主義社会を実現するためには必要なんです。そういう団体をどんどん作っていかなければならないと思います。

そういう意味では、監督官制度も同じ課題を抱えていると思います。ばらばらに救済していてはダメで、労働者のニーズを救い上げて政策につなげていくような回路がない。現状では、ただ消火作業を押し付けられているような状況です。そりゃ官僚的になる監督官も出てきますよ。

田島:「ダンダリン」をやるにあたって、監督官にまつわる制度について私なりに調べました。その印象からいうと、非常に中途半端な制度になってしまっていて、現場の労働者のガス抜き装置なんじゃないかと疑いたくなるぐらいです。

例えば、監督官の権限というのは7~8つの法律にしか認められていない。しかも、司法警察員として逮捕権限まであると規定されていながら監督署には留置施設もなく、実際に被疑者を逮捕できる体制にはない。そもそも監督官の人数からして、ILO(国際労働機関)が勧告している人数の半数以下です。そうすると、今お話いただいたような中間団体を担う存在からは程遠いということになってしまいます。

私は、最も大事なのは労働者の意識だと思っています。労働者が自分にはどんな権利があって、どんな場合に自分の権利が侵害され、それに対して怒っていいのか、それとも悪いのか、ということを意識しなければいけないと思うんです。でも、普通の労働者の方はあまり意識してないと思うんですよね。むしろ唯々諾々と経営者に従うことが美しいと思ってる人も多いように思えます。意識してないがゆえに、自分が戦おうとしない。能力があり、労働者のために一生懸命になろうとする社労士や弁護士も、本人が戦わないと何もできません。これは労働組合も監督官も一緒でしょう。しかし、いま企業と徹底的に争おうという人はごく少数の存在だと思います。

今野:逆に今、企業と争おうという意識のある当事者の方って、“変わったひと”とみられがちです。

労働組合に入ってバリバリやる人とか裁判を最後までやる人というのは、世の中全体からみると、“変わった人”なんですよ。「変わり者」が世の中の常識をこえて突っ走るみたいに見えてしまう。労組の方も、鉢巻きにゼッケンとか、古いスタイルで社全行動とかをやるから、ますます変な人に見えてしまい、普通の人が権利を主張するというような状況が遠ざかってしまう。こういう悪循環があると思うんです。

これからは、誰もが権利を侵害されたときに、法的な権利を行使するということができるようにしなければならない。そのための仕組みをどう作るかが重要です。そのためには教育や福祉が変わらなければいけないし、労組のやり方もかえていかなければなりません。今回、厚生労働省がブラック企業に対して大々的にアナウンスしましたが、非常に大きな意味があると思います。

ブラック企業のツケを払うのは真面目な経営者


―最近は、「ブラック企業」という言葉が普及した分、混乱もしてきていると思います。「日本の企業は全部ブラックじゃないか」といった少々極端な言説も出てきていますが。

今野:私は「ブラック企業」の定義はなるべく小さくすべきだと思っています。というのも、ブラック企業は「ちょっと違法なことをしている企業」というレベルではないからです。だから、私が経営者団体などの勉強会でブラック企業の実状をお話しすると、実は、「さすがにそれはまずい」「そんなことまでやってたのか」となります。

しかし、現状では、「ブラック企業」と批判する側も少し悪くて、何でもかんでも「ブラック」と言いがちなんです。その結果、「ブラック企業なんていうのはいいがかりだ」という批判が説得力を持ってしまう。

だから理論的な腑分けが必要です。まず何故「ブラック企業」という言葉出てきたのか、その「背景」にきちんと寄り添うことが重要だと思います。多くの場合、「ブラック企業」という言葉に乗せて、みんな自分の言いたいことを言ってるんです。そうではなくて、何故「ブラック企業」という言葉がここまで広がったかを考えなければいけません。

例えば、残業代不払いがあろうと多少有給が取れなかろうと、昔は年功賃金、終身雇用でしたから、それほど不満がでてこなかった。中小・零細企業であっても社長とウマさえあっていれば、そこまでひどい条件になることはありませんでした。そこを外れると悲惨なのですが、それでも転職していくので中小・零細企業の離職率は昔から高かったわけです。そういった状態でも「ブラック」とまで呼ばれることはなかった。

じゃあ何故今こんなにブラックという言葉が出てきて広がるのか。それは将来に対して何の見込みや条件もないのに死ぬほど働かせる企業が出てきて、そこに新卒でつかまったら最後だからなんです。大卒の1回しかないチャンスをめちゃくちゃに潰されてしまう。こういう事例が大量に生まれてきたから、就活生の間で「ブラック企業」という言葉が広がったんです。まずそのことを問題にしなければいけません。

また、理論的には、日本型雇用や企業別労組の問題があって、それが悪化した結果「ブラック」が出てきた。終身雇用や年功賃金への「信頼」と引き換えの過剰な命令が、今や信頼を「悪用」し、使い潰すために用いるという構図があるからです。

なので、まずは、「新卒を使い潰す」という、狭い意味でのブラック企業をなんとかしなければいけないけれど、その先には日本の労働市場、雇用システムを改革する必要があるよね、という風に話が進むわけです。それらをすべてすっ飛ばして、自分の言いたいことだけいうからわけがわからなくなってしまう。

ブラック企業に対する対策を考える上では、教育も重要になってきます。いままでの日本においては、企業という存在が非常に信頼されてきた。だから、労働法なんかまったく教えないですし、逆に「頑張れば何とかなる」と教えてしまうんです。頑張ってもなんともならないのが、ブラック企業なんですよ。一方で、今でも頑張れば何とかなる、ちゃんとした企業もいっぱいあるから、話がややこしい。「労働法よりも頑張ることを教えろよ!」とちゃんとしている企業が言うのはわかるんですが、それに対してブラック企業が相乗りして「そうだ!そうだ!」というわけです。

「いやいや、労働者がわがままいっているだろ」と、優良企業の経営者が言ってしまうとこれにブラック企業が悪乗りしてくるんですよ。「そうだそうだ。そういう奴いるだろ。ブラックとか言わせるんじゃねぇよ」と。ブラック企業の経営者はそういう展開にもちこみたいんですよ。

これについては、もうブラック企業が存在しているわけですから、優良な企業に諦めていただくしかない。これからはみんな労働法を学んで、何かあったときに対応できる力をつけなければ、今後もうつ病の若者が生み出されて、そのツケをまわされるわけです。だからこそ、優良な企業な人たちにはブラック企業を退治する側に回って欲しい。それが進んでいけば、優良企業でも問題は発生しなくなってくるわけですよ。悪乗りして「ブラック!ブラック!」と騒ぐ人間を減らすためにも本当に悪い企業をしっかりと退治しなければいけない。日本の経済全体のためにもブラック企業をみんなで叩く。その方が絶対に生産性あがると思うんですよね。

田島:道路交通法に違反してもよいというわけではありませんが、先ほどの道交法の例え話しでいうと、速度制限50kmのところを51kmで走っていたら違法は違法ではあるものの、それをブラックドライバーなどと呼んで特別視する必要があるのかということですよね。1kmオーバーのドライバーも、酒に酔って何十kmもスピードオーバーをしたドライバーも一緒くたにしてブラックと呼ぶのではなく、まずは、酒に酔って何十kmもオーバーをしたドライバーをブラックと呼んで区別しましょうということなんですよね。

それを一緒くたにしてしまうと、悪質ドライバーまで1kmオーバーのドライバーにまぎれて、「道交法なんか、皆守れない」だとか「結婚式の帰りに飲んで運転するぐらいは仕方ないじゃないか」と言いはじめる。それを許しちゃいけない。真っ当なドライバーが1kmの速度超過するのと、酒酔い運転で何十kmもスピードオーバーするのとでは、非難の本質が違うわけですからね。

今野:僕は違法だから全部「ブラック」だとは言いません。そこは切り分けるべきだと思うんです。違法だからブラックなんじゃないんです。人を使い潰すからブラックなんです。

「経団連が全部悪い」といった話ではなくて、本当に悪いところに絞り込んで、まずそこをつぶしていくという問題の立て方をしなければいけない。これはかなり支持を受けられると思うんです。例えば、過重労働の結果うつ病に追い込んで、国家に医療費を負担させている企業があったとします。これは健全に人を育てている企業に負担をまわして、自分のところは使い捨てで利益をあげるということです。

怪我や事故を含めて心身を破壊するところまでいくと間違いなく「ブラック」といえるでしょう。つまり、人の命とか健康といった持続可能な経済をなんとも思わないで経営している経営者は迷惑じゃないですか。公害なんですよ。水銀を垂れ流して利益を出すのと同じです。人を使い潰して利益を出していれば、そのツケは誰が払うんですか。他のまじめな経営者、あるいは一般市民ですよ。それがおかしいといっているだけなんです。そこまでしなければ経営できないなんていうならやめればいいんですよ。

こういうテーマが、「ダンダリン」でも見えていたと思うんですよね。経営者側の論理も描くんだけど、それがどんな社会悪をもたらすのかというところをキチンと描いていて、単に法律違反だからと教条的に責めてるわけじゃないんですよね。

田島:確かに主人公の凛というキャラクターは突拍子もない監督官として描かれています。でも、形だけの法律違反でワーワー言っているわけじゃないんですよ。労働者の救済のためならば、監督官の権限を多少乗り越えてでも、動くべきじゃないかと主張する。労働者の被害という本質の部分に突き進むキャラクターとして描いたんです。決して形式的な法律違反を問題にしているわけじゃないんです。

今野:「朝まで生テレビ」などで議論していると経営者はいうんですよ。「法違反はしていない。形式的には罰せられないんだ。だからブラックじゃないんだ」と。そういうことを言ってるんじゃないんですよ。法律違反がないといっても36協定で300時間の協定を結んでたりするわけですよ。それは即座に法律違反ではないですが、社会悪ですよ。

田島:形式的には36協定を結んでいれば法違反ではないですけど、実質的にはなぜ労基法が36協定を結ばないといけないと定めているのか。労働者に過酷な残業をさせてはならないという趣旨に思いっきり反していますからね。

今野:結果的にそれで自殺につながったりするわけですから。法律論にもちこみたがるのは、どちらかというとブラック企業側なんですね。本質は違法かどうかではありません。

「ブラック企業」というのは、日本社会の転換点に出てきた問題だと思うんですね。つまり、企業を信頼し ていれば、右肩上がりであがっていけると思われていた。しかし、企業がみんなの生活を保障してくれるという前提が変化してきている。そして、社会貢献を意識しない、若者を使い捨てても何の問題もないと言い放つ大企業の経営者が出てきている。そういう状況を前提にした社会に変えていかなければいけない。

それができなければ、これからの社会を担う人がしわ寄せを受けてしまう。だから教育や福祉も変わっていかなければいけないんです。例えば、福祉関係であれば自立支援の傾向が強いので、「とにかく自立しろ、そのために企業に入れ」というんですが、その企業が人を使い潰す企業だったら、健康を損なって医療費がかさんだりというように、より追い詰められてしまう。なので、単に「個人が頑張って自己責任でいい企業に入る」という以外の価値観を提示できる社会にしていく必要があると思います。そういう認識をもっともっと広げていきたいですね。

田島:今日は今野さんとお話をさせていただいて、これまで自分の中で明確な違和感を感じながらも、どこか漠然としていたブラック企業問題の本質について、とても明確な論理的筋道ができました。『ダンダリン』はコミックス1巻で終わりましたが、『カバチ!!!』でも労働問題を描いていくつもりですし、そこで言わんとすることは『ダンダリン』と変わりません。『ダンダリン』で描いたスピリッツを『カバチ!!!』をはじめ、『がんぼ: 1』『奮闘!びったれ 』など、私の作品の中でこれからも伝えていきたいと思います。

今野:今回お話しして、想像していた以上に取材され、精緻に考え抜かれた作品なのだということがよくわかりました。これからも作品に注目させていただきます。今日はありがとうございました。 

プロフィール


田島隆(たじま たかし):1968年広島県呉市生まれ。家庭の事情で高校を中退。1983年以来、独立して生計を営み、数多くの職を経験する。1988年に法律家を志し、司法書士補助者を経て1991年に海事代理士試験に合格。同年、呉市に田島海事法務事務所をかまえ、現在まで海事代理士・行政書士として活動している。1999年より「モーニング」にて連載された『カバチタレ!』の原作を手掛ける。2013年5月より『カバチ!!!』が連載中。



今野晴貴(こんの はるき):1983年生まれ。NPO法人POSSE代表。専門は労働社会学、雇用政策。著書に、『ブラック企業 日本を食いつぶす妖怪』(文春新書、2012年)、『マジで使える労働法』(イーストプレス、2009年)、共著に『ブラック企業に負けない』(旬報社、2011年)、など。






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