早稲田大学ビジネススクールの入山章栄教授が『キングダム』の魅力を語ります(©原泰久/集英社)

東洋経済オンラインでは、期間限定で大人気漫画『キングダム』の序章を無料で公開中だ(こちらからご覧ください)。2000年以上前の中国で縦横無尽の活躍を見せるキャラクターのなかには、後に始皇帝となる若き王・嬴政(えいせい)など実在の人物も含まれる。

経営学を専門とし、多くの研究業績や著書のある早稲田大学の入山章栄教授は、今注目のスタートアップから大企業まで幅広い人脈の中で、経営者たちが『キングダム』にハマっていることに注目。自身も『キングダム』ファンであると同時に、経営学の観点から同作を分析してきた。経営学者は『キングダム』をどう読むのか。

前編:漫画「キングダム」に起業家が心奪われる納得理由

「キングダム」はベンチャーの世界と重なる

――前編では起業家は信と嬴政に共感しやすいとのことでしたが、ほかに起業家に人気のキャラクターはいますか。

山の民を率いる楊端和(ようたんわ)が好きな人は結構います。ただ、楊端和が好きという以上に、多様性の象徴のような彼女をチームに入れることに成功した嬴政がすごい、というやはり嬴政の立場での見方かもしれません。ほかに、呂氏四柱として呂不韋(りょふい)に仕えた後、嬴政についた右丞相(うじょうしょう、君主を補佐する高位の官吏)の昌平君(しょうへいくん、9巻初登場)が好きという人も多いです。

――途中で別陣営に移るという昌平君の行動を、起業家はどう受け止めるのでしょう。

トップと方向性が合わなくなって他社へ、というのは「ベンチャーあるある」ですし、引き抜きも普通のことです。

45巻には、野盗の首領から将軍になった桓騎(かんき)の隊に側近として属していた那貴(なき)が飛信隊に移るという印象的なシーンもある。ベンチャーの世界も、お金や待遇だけではなく、トップと合うか、企業文化がどうか、そして何を目指している会社なのかが非常に大事。そうした現実とも重なる話です。


のちの秦の始皇帝である嬴政についた昌平君(©原泰久/集英社)

今のスタートアップ界隈では、人の移動がかなり自由。待遇面と企業のビジョンの両方が重視されるし、自分に合わない会社だと思ったら社員はすぐ辞めてしまう。アメリカでは以前からこれが普通でしたが、日本もついにそういう時代になってきた。働いてもらうための意味づけ、センスメイキングの重要性がますます強まっています。

『キングダム』で軍を構成するのは職業軍人だけではありません。主人公・信の地元の仲間も、普段は別の仕事をする一般の人々だった。なぜ彼らが一時的に軍に入るかというと、お金がもらえるからです。

目当てがお金であれば、戦況が悪くなった際には脱走者が続出して当然です。ただし、『キングダム』では、とくに飛信隊の成立以降、金銭面よりも、「この人についていきたい」という思いのほうが重要なものとして描かれている。これが、自社のビジョンをどのように設定・提示するかについて自問自答し続ける起業家たちを引きつけているのだと思います。

今年は30代の給料が大企業とベンチャーで逆転する

――給与面に関して、以前はベンチャーといえば「志は高いものの激務薄給」というイメージでしたが、最近は印象が変わってきました。

今年、30代のビジネスパーソンの給料が大企業とベンチャーとの間で初めて逆転するといいます。ベンチャーのほうが高給になる。特定の業種に限らない話です。

昔のベンチャーはまさに「夢はあるけど、金はない」世界だった。でもこれからは、「夢があるし、金もある」。一方、「夢はないけど、金はある」はずだった大企業が、今後は「夢はないし、金もない」になる可能性もある。コロナ後は日本でも大転職時代になると思います。

僕の所属する早稲田大学のビジネススクールも、働きながら通う学生が中心の夜のプログラムは倍率が5倍ほどになっています。10年前は2倍程度でした。今の世の中に不安を感じて、スキルを身につけるためにビジネススクールに通う。多くの学生はその先の転職を、心のどこかで意識しているのではないか。

身につけたスキルを生かす場としてベンチャーを選ぶ人もきっと少なくない。ただし、転職後、1社に定着するかどうかは微妙なところです。ベンチャー企業では人の流動性が高く、10%台前半なら退職率が低いという入れ替わりの激しい世界ですから。


入山章栄(いりやま・あきえ)/慶應義塾大学経済学部卒業、同大学院経済学研究科修士課程修了。2008年にアメリカ・ピッツバーグ大学経営大学院よりPh.D.取得。同年よりニューヨーク州立大学バッファロー校ビジネススクール助教授。2019年から現職。専門は経営戦略論、国際経営論。著書に『世界の経営学者はいま何を考えているのか』(英治出版)、『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』(日経BP)など。監訳に『両利きの経営』(東洋経済新報社)(写真:梅谷秀司)

――1割が入れ替わるとなると、組織にとっては大きなインパクトです。

ええ。しかし、戦国時代的な状況で優秀な人に定着してもらうのは本当に難しい。ある程度の待遇は当然として、優秀な人に居続けてもらうためにやはり重要なのがビジョンです。「こういう世界を作りたい」というトップのビジョンや、行動規範、価値観が魅力的なら、給料や待遇がライバル社より若干劣っていても、辞めない理由になりうる。

『キングダム』でも、昌平君が嬴政の陣営に加わったのは嬴政の描く未来図に共感したからだし、那貴が「飛信隊で食う飯ってうまいんスよね」と言いながら飛信隊に移ったのはカルチャーフィットがよかったから。今の日本企業に足りないものが、ビジョンとカルチャーです。これらは戦略的に作らなければならないものなのに、それが行われていない。


桓騎の下を離れ、飛信隊に移った那貴(©原泰久/集英社)

イーロン・マスクは桓騎タイプ

――ビジョンとカルチャーに関して、実在する経営者を『キングダム』のキャラクターに当てはめるとどうでしょうか。

そうですね。例えば、テスラCEOのイーロン・マスクは桓騎のようなタイプだと思います。実際にテスラで働いた経験がある人からは、過酷な労働環境やイーロン・マスクの独裁者的な振る舞いに関する話も聞きます。

――前編で、桓騎タイプの経営者は成功しないという話もありましたが、テスラは成功しています。

その意味では特殊な成功例なのですが、ここでまず、これからの企業経営の前提となる考え方、「共感性」について説明したいと思います。共感性には2つの軸があって、1つはビジョン・ミッション軸。遠い未来に向かって何をやってどんな世界を作るか、という動詞的なイメージです。

もう1つがバリュー軸、価値観です。こういう雰囲気の会社組織にしたいという企業文化、形容詞的なイメージです。この両方が必要なのですが、日本の大手企業には両方がない。

●「共感性」の時代の2つの軸


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うまくいっているグローバル企業は、両方を持っている場合が多い。例えばグーグルや、アマゾンのとくにクラウドコンピューティングサービスを提供するAWS(Amazon Web Services)は右上に位置します。『キングダム』の信と嬴政も、このマトリックスの右上方向を目指しているようなイメージです。

イーロン・マスクの場合は、ビジョン軸では高い水準にあるけれど、バリュー軸では劣るので左上の位置。彼が社員に提供しているのは強烈な世界観です。スペースXでいうと、「宇宙への進出によって人類を救いたい」。その強烈なビジョンに共感して人が集まるけれど、労働環境はよくないのでどんどん辞める。

「こういう価値観で一緒にやっていこう」という文化をうまく作ることはできていませんが、ビジョンがあまりに強烈なので、その力だけでも人を引きつけられるし今のところ成功している。そんなイメージの組織です。

『キングダム』の桓騎の場合、彼の根底にあるのは「すべてに対する怒り」とされています。おそらく、それに共鳴したり、桓騎のカリスマ性に引きつけられたりした反社会的なグループが彼の下に集結しているものの、価値観は統一されていません。

グーグルは「世界中の情報を整理し、誰でもアクセスでき、使えるようにすること」、アマゾンは「地球上で最も顧客を大切にする企業であること」をミッションとしています。同時に、両社は企業文化、そして従業員のカルチャーフィットをものすごく大事にしており、それを戦略的に作っている。

――アマゾンは大量採用、大量離職のイメージもありました。

ジェフ・ベゾス時代のアマゾン、とくに小売り部門は、今のイーロン・マスクに近い位置だったかもしれません。ただ、いずれにしても、創業者がほぼ経営から退いた現在はビジョン軸とバリュー軸が共に高い水準にある。そしてそのうえで、実は離職自体は問題にならない。カルチャーにフィットした人だけが残ればいいという発想です。

日本では、「従業員が辞めない=人を大切にする会社」と思われがちですが、それだと甘えた人しか残らない。本来大事なのは、会社のカルチャーに合っていて活躍できる人が残ること。これは日本企業が海外進出する際にも同様です。カルチャーが、うまく海外展開できるかどうか、優秀な現地スタッフを獲得できるかどうかの前提ということでもあります。

成功企業のビジョンやカルチャーを基にする手法も

アメリカで、例えばスタンフォード大学を卒業した、コンピューターサイエンスを専門とする新卒の社員を雇うなら、提示する年収は4000万円ほど。さらに苦労して採用しても、合わないと思ったらすぐ辞めてしまう。

僕が社外取締役をしている会社の例で恐縮ですが、今、海外展開を進めているベンチャー企業にKDDI傘下のIoTプラットフォーム、ソラコム(SORACOM)があります。実はソラコムでは、アメリカでもあまり人が辞めない。その理由を経営陣に聞いたところ、同社は創業者が3人ともAWS出身であるとのことでした。

つまりAWS仕込みのビジョンやカルチャーが社内に受け継がれていて、アメリカになじみやすい。すでに成功している企業のビジョンやカルチャーを基にするやり方もあるということです。

――国内事業と海外展開のどちらを考えても、今後はますますビジョンとカルチャーが重要になるのですね。

多くの日本企業は、社訓や企業理念、企業文化をないがしろにしすぎています。魅力的な理念に共感して入社しても、社内でそれが徹底されているかとなると疑問、というケースが多い。企業理念を、神棚に上げてまつるだけのものにしてしまっている。

考えてほしいのは、企業理念を社員一人ひとりが行動に落とし込めているかどうか。それができているかできていないかの差が、大きな違いを生みます。

『漫画「キングダム」(第1話)身の丈を超えた野望』はこちら

(山本 舞衣 : 『週刊東洋経済』編集者)