日本を初めて空襲したことで知られるドーリットル爆撃隊、その8番機は予定を大きく外れウラジオストク付近へ着陸しました。ソ連から準捕虜の扱いを受けるその乗員たちが演じた「決死の脱出劇」を追います。

中国へ飛ぶはずが…着陸したのはソ連でした

 1942(昭和17)年4月18日、アメリカのドーリットル爆撃隊は双発陸上爆撃機B-25で空母を発艦し、掩護する戦闘機なしに日本本土を奇襲、中国大陸に逃げ込むという奇想天外で無茶な任務を実行しました。しかし、それは同爆撃隊8番機の機長エドワード・ヨーク大尉以下5名の乗員たちにとって、さらなる冒険劇の始まりに過ぎませんでした。


ウラジオストック近郊に着陸したドーリットル爆撃隊8番機のB-25。アメリカに返還されることなく1950年代に解体された(画像:アメリカ陸軍)。

 ドーリットル爆撃隊は攻撃後、日本軍の勢力圏から約200kmの距離にある中国浙江省衢州(くしゅう)の飛行場に着陸することになっており、これはB-25の航続限界ギリギリの距離でした。当初はもっと近いソ連のウラジオストックへの着陸が計画されていたのですが、日ソ中立条約がありソ連に拒否されていました。

 そうしたなか、攻撃を実施した8番機は機器不調で燃料消費が早く、ヨーク機長は中国にたどり着けないと判断して廃案に挙がっていたソ連に向かい、ウラジオストックから約86km北のヴォズドヴィデンカ軍用飛行場に着陸します。

 乗員たちはソ連に拘束されましたが脱出に成功し、1943(昭和18)5月29日に祖国へ帰還します。空母から出撃した13か月後のことでした。この脱出行は後年、ソ連の崩壊による機密解除もあり、スパイストーリーのような冒険劇だったことが明らかになります。

 ソ連にとって突如、闖入してきたドーリットル爆撃隊8番機は厄介な客でした。ソ連は当時、アメリカとは対ドイツ戦で同盟関係にあり、レンドリース法で物資の支援を受け始めたばかりのタイミングでした。一方、日本とは日ソ中立条約があり、日本を空襲した爆撃隊を安易に解放すれば日ソ関係が悪化します。外交的に非常に微妙な立場で、拘束するにも解放するにも面倒なことになります。

日ソ中立に基づき拘束…ならば脱走だ

 結局、ソ連は駐ソ米大使に形式的な抗議を行い、日ソ中立条約に基づきB-25は没収、その乗員を拘束しました。乗員たちの収容場所は、ウラジオストックからボルガ川流域まで点々と移動を繰り返し、東西に広大なソ連の半分を移動したことになります。

 扱いは人道的で、監視警備はゆるくアメリカ大使館員との面会も可能でしたが、準捕虜であることに違いはなく、乗員はいつ帰国できるかわからない不安でストレスが溜まる一方でした。ある時ヨーク機長がアメリカ大使館員と面会した際に脱走したいと漏らしたところ、アメリカ軍のオマール・ブラッドレー少将から大人しくしているよう、直々に指示が出たほどです。それくらい、当時の日米ソの外交関係は微妙でした。


ドーリットル隊の飛行経路。燃料が不足した8番機はウラジオストックを目指した(国立アメリカ空軍博物館所蔵画像を月刊PANZER編集部にて加工)。

 そうしたなか、ロシア語を少し話せる様になっていた乗員たちは、トルクメニスタン(ソ連邦内共和国)首都アシガバードへの移送中の列車内で、アレクサンドル・ヤキメンコという赤軍少佐と親しくなりました。ヤキメンコ少佐は乗員たちに同情し、帰国の手伝いをしようと動いてくれるようになります。

 しかし、いち軍人に過ぎないヤキメンコ少佐がソ連の外交当局を動かすことは非常に困難でした。やがてヨーク機長とヤキメンコ少佐は、ついに秘密の脱走計画を立てるにいたります。イランに出入りする密輸業者を雇い、警備の薄いソ連イラン国境を越え、イギリス領事館に逃げ込むというもので、ヤキメンコ少佐の提案によるものでした。密輸業者に払う必要経費は250ドルということで、乗員たちはなけなしの所持金をかき集めたのでした。

 脱出劇は1943年5月10日夜に実行されます。ヤキメンコ少佐と乗員たちは涙を流して別れを惜しみ、成功を誓い合ったといいます。密輸業者のトラックに乗り込んだ乗員たちは、闇夜に紛れて国境の鉄条網へ。さすがは密輸業者で、警備の薄い場所とタイミングはわかっていました。

 こうして、徒歩で鉄条網をくぐり抜け、イラン側で別の密輸業者のトラックと落ちあった乗員たちは、11日中にはイランのイギリス領事館にたどり着くことができました。

ドーリットル8番機乗員たちによる脱出劇の「舞台裏」

 乗員たちの執念と知恵と勇気の脱出劇、といいたいところですが、外国人との接触が厳しく制限されていたスターリン時代ソ連の話としてはできすぎであり、違和感がないでしょうか。

 8番機の銃手で、爆撃隊のなかで最年少の20歳だったデビッド・W・ポール軍曹はのちに、脱出はすべてソ連軍参謀本部とNKVD(エヌカーヴェーデー、内務人民委員部。刑事警察、秘密警察、国境警察、諜報機関を統括していた)によって計画されたものだと疑っている、と明かしました。一方で副操縦士のロバート・G・エマンズ少尉は、脱出は本物だったと反論しています。


前列左が8番機機長のエドワード・J・ヨーク大尉、隣が副操縦士ロバート・G・エマンズ少尉、後列最右が銃手デビッド・W・ポール軍曹(画像:アメリカ空軍博物館)。

 真実は、ポール軍曹の疑念のとおりでした。この脱出行は、ソ連共産党指導部とNKVDによって巧妙に仕向けられた茶番劇だったのです。涙を流して乗員たちを送り出した助演男優賞もののヤキメンコ少佐の正体は、ウラジーミル・ボヤルスキーというNKVDの少佐でした。

 当時のソ連最高指導者スターリンは、アメリカから乗員解放の働きかけも強くなり、面倒くさい賓客を早く送り返すため、NKVDにイラン経由で脱出させるよう指示します。しかし日本との関係を考慮して、あくまで乗員たちが自らの主導で計画して脱出したと見せかけるよう念を押します。

 この舞台装置は大がかりでした。脱出を手引きした密輸業者など、かかわった人物がすべてNKVDの要員でした。しかも乗員たちが必死の思いで越えた国境の鉄条網も検問所も、トルクメニスタン内にわざわざ作られた大道具の偽物だったのです。

 当時、枢軸国寄りだったイランには1941(昭和16)年8月にソ連とイギリスが侵攻し、ソ連と国境があるイラン北部はソ連軍が占領駐留していました。そのため、「脱走した捕虜たち」をイランに越境させイギリス領事館に駆け込ませることなど、造作もないことでした。イギリスもひと口、噛んでいた可能性があります。

 まとめると、スターリンの指示でNKVDが用意したシナリオのもと、ソ連軍が占領警備している舞台装置のなかで、アメリカ人乗員たちはそうと知らぬまま迫真の脱出劇を演じていた、というわけです。しかも主演俳優たちは出演料まで支払っています。

 しかし闖入者のせいで日米との微妙な外交舞台を演じなければならなかったスターリンにとって、250ドルは少なすぎる代価だったことでしょう。