旧日本軍の“最強”水上機「瑞雲」偵察・爆撃・空中戦… なぜ機能をてんこ盛りに?
太平洋戦争直前、旧日本海軍は空戦性能良好で急降下爆撃や弾着観測も可能、航続距離は長大という異例の汎用機を発注します。こうして生まれたのが水上偵察機「瑞雲」ですが、なぜこんな機体が要求されたのか見てみます。
九五式水上偵察機の成功が独自進化の端緒
第2次世界大戦中の戦艦や巡洋艦の多くは、偵察や弾着観測などの用途で少数の水上機を搭載していました。そのなかで旧日本海軍は、水上機により積極的な任務を担わせます。理由は広大な太平洋の島々に、滑走路を備えた基地を設営する困難さを考慮したからです。
ゆえに日本は、他国と比べて数多くの水上機や飛行艇を開発します。その結果、潜水艦に搭載可能なよう小型でコンパクト性に優れた構造の零式小型水上機や、長距離飛行や積載力に優れた4発エンジンの大型機、二式飛行艇など、特筆すべき点を有した機体が数多く生まれています。一方、それらに匹敵する旧日本海軍ならではといえる水上機が、太平洋戦争中に生まれた水上偵察機「瑞雲」でしょう。
旧日本海軍の水上偵察機「瑞雲」(画像:サンディエゴ航空宇宙博物館)。
「瑞雲」は2人乗りのいわゆる二座水上偵察機の完成形といえるものですが、日本が二座水上偵察機を独自進化させた原因は、1935(昭和10)年に制式化された九五式水上偵察機、いわゆる「九五式水偵」の成功が発端でした。
九五式水偵は、最高時速299km/h、航続距離1681km、7.7mm機銃2門、30kg爆弾2発を搭載可能な性能を有していました。これは同じ年に制式化された単座(ひとり乗り)の九五式艦上戦闘機(九五式艦戦)が持つ最高時速352km/h、航続距離850km、7.7mm機銃2門、30kg爆弾2発搭載という性能に比肩するほどだったといえます。
九五式水偵は九五式艦戦と比較して最高速度こそ85%程度の水準ですが、これは零式艦上戦闘機の初期型である零戦一一型と、それをベースに水上戦闘機に仕立て直した二式水上戦闘機の差と同じ程度といえます。二座水上偵察機と単座艦上戦闘機の差を考慮した場合、九五式水偵は驚異的ともいえるほどの高性能でした。
空戦における格闘性能を判断する際のひとつの指標となる翼面荷重を見てみても、九五式水偵が71.7なのに対し、九五式艦戦は76.8。比較すると前者の方が優れていました。
このように、空戦、爆撃、観測、短距離偵察など、なんでもこなせる「万能機」に九五式水偵が仕上がったことで、旧日本海軍は二座水上機への要求を過大にしていきます。
重巡から急降下爆撃機隊出撃の目論見
当時の日本はワシントン海軍軍縮条約やロンドン海軍軍縮条約で空母保有数が制限されていたため、空母の急降下爆撃機だけでは、敵とみなしていたアメリカ艦隊への攻撃力が不足していました。そこで重巡洋艦が搭載する二座水上偵察機にも「急降下爆撃能力」を要求するようになります。
終戦直後にアメリカ軍に接収された旧日本海軍の水上偵察機「瑞雲」(画像:サンディエゴ航空宇宙博物館)。
妙高型巡洋艦以降に就役した重巡14隻、すなわち妙高型4隻、高雄型4隻、最上型4隻、利根型2隻、これらが搭載する二座水上偵察機の合計は44機にもなります。これらすべてが急降下爆撃能力を持つ機体ならば、空母2隻分の急降下爆撃機の機数とほぼ同等であり、その分、戦力が増えると考えたのです。なお、この思想に沿って旧日本海軍は、実際に重巡の航空艤装を改装しています。
こうした考えのもと、旧日本海軍は1937(昭和12)年から急降下爆撃可能な新型水上偵察機の開発に乗り出しました。
「十二試二座水上偵察機」と呼称された新型機は、最高速度361km/h、航続距離1065km、7.7mm機銃3門、250kg爆弾1発を搭載可能という性能が要求されます。これは九九式艦上爆撃機一一型(空母搭載機)の最高速度381km/h、航続距離1472km、7.7mm機銃3門、250kg爆弾1発搭載と大差ない性能でした。しかし、造られた機体は操縦性と安定性に問題があり、不採用となります。
多用途性てんこ盛りの要求
ただ、旧日本海軍は諦めず、1940(昭和15)年より、今度は「十四試二座水上偵察機」を開発します。これが後の水上偵察機「瑞雲」になりますが、「瑞雲」への要求は前型の十二試二座水上偵察機よりも欲張ったものでした。
なんと「瑞雲」は、事実上の戦闘機兼偵察機といえるものであった零式観測機も置き換える予定だったのです。偵察能力と急降下爆撃能力に加え、20mm機銃の搭載や最大速度463km/h以上の高速性能、そして優れた格闘戦性能という空戦能力まで求められていました。最大航続距離についても艦上爆撃機「彗星」の2222kmを上回る2500km以上が要求されます。
終戦直後にアメリカ軍に接収された旧日本海軍の水上偵察機「瑞雲」(画像:サンディエゴ航空宇宙博物館)。
とうぜんながら試作は難航。しかし、太平洋戦争中の1942(昭和17)年に旧日本海軍がミッドウェー海戦で敗北を喫したことで、「瑞雲」への期待は高まります。たとえば、損傷した重巡洋艦「最上」は、「瑞雲」搭載を前提に主砲塔の完全復旧を行わず、船体後部を航空機搭載スペースに転用、水上機11機の搭載能力を付与したほどでした。
同じように船体後部を航空機搭載スペースに改装し、航空戦艦に変身した「伊勢」「日向」に関しても、当初は艦上爆撃機「彗星」だけを搭載する予定だったのが、「瑞雲」も搭載できるように変更されます。
さらには大和型戦艦も「瑞雲」20機の搭載が計画されるなどしており、万能機「瑞雲」に寄せる旧日本海軍の期待は高まるばかりだったといえるでしょう。
何でも屋として生まれるも戦局に恵まれず
こうして、旧日本海軍の期待を一身に背負った新型水上機は、1943(昭和18)年8月に「瑞雲」一一型として採用されます。性能は最高速度448km/h、航続距離2535km、20mm機銃2門、7.7mm(後に13mm)機銃1門、250kg爆弾1発搭載で、ほぼ要求を満たしていました。
「瑞雲」は、戦闘機並みの空戦フラップと前方20mm機銃、急降下爆撃機並みのダイブブレーキを備えていました。同年1月に採用された九九式艦上爆撃機二二型が、同じエンジンで最高速度427.8km/h、航続距離1050km、7.7mm機銃3門、250kg爆弾1発搭載であったことから、いうなれば一世代前の艦上爆撃機に勝る水上爆撃機だったと形容できるでしょう。
結局「瑞雲」は、艦上運用こそされなかったものの、フィリピンや沖縄方面で偵察に用いられたほか、夜間における対艦艇並びに対飛行場攻撃で戦果を上げています。
1945(昭和20)年には改良型として「瑞雲」一二型も試作されました。性能は不明ですが、換装したエンジンの馬力アップから推測すると、最高速度が30km/hほど向上したと考えられます。
旧日本海軍の水上偵察機「瑞雲」(画像:サンディエゴ航空宇宙博物館)。
本機に匹敵する艦載の水上機は、アメリカのSC-1「シーホーク」だけです。同機は単座なので最高速度が503.7km/hと速く、航続距離1006km、12.7mm機銃2門、147kg爆弾2発搭載と高性能でした。
ただし「シーホーク」の低空速度は「瑞雲」と大差ないと考えられます。また、水上戦闘機としての能力は要求されていないため、翼面荷重は156.9と「瑞雲」の135.7より高く、運動性で劣ることを考えると、総合的に対等と筆者(安藤昌季:乗りものライター)は推察します。
水上機は悪天候だと離着水できない問題などがあり、実際、最前線では2日に一度は運用が制限されるといったことがあったそうですが、広大な太平洋の島々に、いちいち滑走路を設営することの困難さを考えたとき、「瑞雲」は生まれるべくして生まれたともいえるのではないでしょうか。