人の真価は死に様にこそ…明治時代の士族叛乱「福岡の変」に散った英雄たちの最期【下編】

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上編のあらすじ

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時は明治10年(1877年)3月、西郷隆盛(さいごう たかもり)を総大将に担ぎ上げた鹿児島士族による最大の叛乱「西南戦争」に呼応するべく、福岡士族を率いて義兵を挙げた武部小四郎(たけべ こしろう)と越智彦四郎(おち ひこしろう)。

後世にいう「福岡の変(福岡の乱)」……勝ち目は薄いと見られていながら、あくまでも信義をまっとうするため、明治政府を相手に大奮闘した福岡士族でしたが、武運つたなく敗れ去ってしまいました。

田原坂の激闘。小林永濯「鹿児島新報田原坂激戦之図」

咲かて散る 花のためしに ならふ身は
いつか誠の 実を結ふらむ

【意訳】咲き誇ることなく散ってしまう花のような一生だったが、大義のために生きた誠の心は、後世必ず結実するだろう

※越智彦四郎の辞世

官憲に捕らわれてしまった越智が刑場の露と消えた一方、武部は再起を図るべく捜索の網をかいくぐり、鹿児島まであと一歩のところまでやって来たのですが……。

人質にとられた少年たちを救うため……

「何だと……っ!」

武部らのもとへ入ってきたのは、彼らの教育していた少年たちが投獄、拷問までされているとの悲報でした。

「……未来を担う少年たちを見殺しには出来ない。かくなる上は、自首するよりあるまい」

「「「先生!」」」

「我が死にざまを少年らに示し、後に続く者を信じよう」

人質をとられて悪党に屈する……ここまではありがちな展開ながら、ここからが神出鬼没で官軍を悩ませた武部小四郎の真骨頂。

「此度の一件、すべて我が一存なれば、ただちに少年らを釈放せよ!」

「少年らを解放せよ!」投降した武部(イメージ)

彼らは官憲の捜索をかいくぐり、鹿児島との国境から福岡県庁まで捕らえられることなくとんぼ返り。いきなり降ってわいたような武部らの出現に、当局は度肝を抜かれました。

「おい、武部先生がとうとう捕まったらしいぞ」

一方、既に投獄されていた少年たちは、自分たちが足手まといになってしまったことを大いに嘆き悲しみます。

「俺たちが不甲斐ないばっかりに……」

「先生、どうかお許し下さい……」

みんなが泣き叫ぶ中、少年の一人である奈良原至(ならはら いたる)が言いました。

「先生はいつも『我々が事敗れてのち、天下の成り行きを監視する責任は君たちの双肩にかかっている』と仰っていた。先生はその精神を実現するため、一命をなげうって俺たちを救いに来て下さったのだ!」

「……そうだな、泣いている場合ではなかったな」

「俺たちがしっかりせねば、先生も安心して旅立てまい……」

そしていよいよ処刑の夜。越智と同様に「除族の上、斬首」となった武部は、処刑場へと引き立てられていきます。

まったく豪い者だ……武部小四郎の立派な最期

「少年たちと、最後に話はできぬか?」

各獄舎に囲まれた中庭を通る時、武部は看守に訊ねました。ずらりと居並ぶ獄窓のどれかに、少年たちがいるはずです。

「ならんならん!何を吹き込むか分かったものではない!」

看守が拒絶すると、武部は冴え冴えとした月の下に立ち止まりました。

「ならば……我が一声をもって伝えるよりあるまい」

「何だと?」

武部は胸も破けよ、誠心とび出でよとばかりに息を吸い込むと、内臓まで吐き出さんばかりの大音声で叫びます。

「行くぞー……っ!」

冴え冴えとした月夜に、武部の雄叫びが響いた(イメージ)

これが何を意味しているか、少年たちだけには伝わりました。

「「「先生……っ!」」」

当時の感激を、後に奈良原至は作家の夢野久作(ゆめの きゅうさく)にこう述懐しています。

「あれが先生の声の聞き納めじゃったが、今でも骨の髄まで沁み通っていて、忘れようにも忘れられん。あの声は今日までわしの臓腑(はらわた)の腐り止めになっている。貧乏というものは辛労い(しんどい)もので、妻子が飢え死によるのを見ると気に入らん奴の世話にでもなりとうなるものじゃ。藩閥の犬畜生にでも頭を下げに行かねば遣り切れんようになるものじゃが、そげな時に、あの月と霜に冴え渡った爽快な声を思い出すと、腸(はらわた)がグルグルとデングリ返って来る。何もかも要らん「行くぞオ」という気もちにもなる。貧乏が愉快になってくる。先生…先生と思うてなあ…」

かつて維新の大義を掲げて戦ってきたものが、いざ自分たちが勝利し、官軍となったら贅沢三昧を尽くし、処世術に長けた者だけが賢しらに立ち回る……そんな中にあっても、志を忘れず生きるように伝えた武部の一声は、少年たちの胸に響き続けました。

……さて、話を戻して武部はいざ処刑に臨み、斬り手に伝えます。

「これから気を整えるゆえ、よしと言うまで斬らぬように」

精神を統一して見苦しい死に様を晒さぬよう、また、斬り手が焦って失敗しないよう配慮したのですが、これは往時の武士たちが最高の状態で死を受け入れる作法でもありました。

「よし!」

果たして一刀の下に武部の首は斬り落とされましたが、その胴体は背筋を伸ばしたまま、まるで生き続けているかのようだったそうです。

「まったく武部は豪(えら)い者だ……平生よほどの覚悟がなければ、これだけの最期は遂げられまい」

世の中は 満つれば欠ける 十六夜の
つきぬ名残は 露ほどもなし

【意訳】世の中、満ちれば必ず欠けるもの……十五夜を過ぎた十六夜月(いざよいづき)に露ほども未練はない

なすべきことはすべて成したのだから、結果はどうあれ思い残すことはない……武部の辞世には、そんな潔さが表れています。

エピローグ・武力から言論の世直し「自由民権運動」へ

月岡芳年「西郷隆盛切腹図」

かくして後世にいう「福岡の乱」は終結、ほどなく西郷隆盛も自刃して士族叛乱の気運は沈静化に向かっていきます。

「これからは、武力よりも言論で世を正さねばならぬ!」

越智や武部らの遺志を継いだ者たちは自由民権運動に身を投じ、日本はまた新たな時代を迎えていくこととなるのですが、そのくだりについては、またの機会に紹介したいと思います。

【完】

※参考文献:

玄洋社社史編纂会『玄洋社社史』葦書房、1992年10月小林よしのり『ゴーマニズム宣言SPECIAL 大東亜論 第二部 愛国志士、決起ス』小学館、2015年12月田中健之 編著『「靖国」に祀られざる人々 「逆徒」と「棄民」の日本近代史』宝島社、2007年7月夢野久作『近世快人伝』葦書房、1995年2月