「なんで私がプロ野球選手に⁉︎」
第2回 中村渉・前編

第1回の記事はこちら>>

 プロ野球は弱肉強食の世界。幼少期から神童ともてはやされたエリートがひしめく厳しい競争社会だが、なかには「なぜ、この選手がプロの世界に入れたのか?」と不思議に思える、異色の経歴を辿った人物がいる。そんな野球人にスポットを当てる新連載「なんで、私がプロ野球選手に!?」。第2回は、畳職人からプロ野球の世界に飛び込んだ中村渉(元・日本ハム)を紹介したい。


2004年のドラフトで日本ハムから7巡目で指名された中村渉氏

 ドラフト指名選手は畳屋だった──。

 特殊なバックグラウンドの持ち主がプロに進んだのは、2004年のことだった。

 ダルビッシュ有(現・パドレス)を1巡目、MICHEAL(マイケル中村)を4巡目で指名し、のちに大成功ドラフトと評価されることになる日本ハム。その7巡目で指名されたのが、中村渉(わたる)という25歳のサウスポーだった。彼は三菱製紙八戸クラブというクラブチームに所属し、普段は実家の畳工店で働いていた。

 ドラフト当時はその異色の経歴がクローズアップされたこともあった。だが、中村が3年間のプロ野球生活で一度も一軍マウンドに立てなかったこともあり、いつしかその名は忘れ去られた。

 誰もが一度は利用したことがあるようなインターネット百科事典に中村の項はあるものの、「半分は本当で、半分は嘘」と本人が困惑する虚実入り混じった記載内容だ。その経歴はいまだに厚いヴェールに覆われている。

 なぜ、青森の畳屋で働く中村がプロの世界に飛び込めたのか。その奇妙な野球人生を辿ると、ずっと日陰を歩んできた者が一瞬だけ放ったまばゆい光に行き当たる。

 中村は1979年、青森県三戸郡の五戸町に生まれている。実家で営む中村畳工店は創業220年の老舗で、父・勇は7代目当主になる。中村は長男だったが、「父から家を継げと言われたことはなかったですし、僕も継ぐつもりはあまりなかった」という。

 それでも、自宅で黙々と作業する父の背中は、中村の脳裏に強く刻まれていた。

「父が働いているところを見て『職人ってかっこいいなぁ』と子どもながらに思っていましたね」

 小学4年生で野球を始め、小中高と地元で野球を続けたものの、華々しい戦績とは無縁。高校は近所の公立校・八戸西に進んだ。中村が最上級生になってからの公式戦最高戦績は2回戦だった。

 高校2年の冬には「140キロを出してプロに行きたい」と一念発起して猛練習に励むも、2月の寒い時期に全力投球したことがたたって左肩を痛めてしまう。その後、青森大の2年まで肩痛は治らなかった。

 それでも、進学した青森大の石橋智監督(現・黒沢尻工監督)からは一定の評価を受けた。日頃から頻繁にジョークを飛ばす石橋監督は、中村に「おまえ、いずれは韓国プロ野球でやれるよ!」と賛辞を送ったという。中村は「なんで日本じゃないの? と思いましたけど」と苦笑交じりに振り返る。

 全国的に見れば、青森大は名門といえるようなチームではなかった。ただし、同期には全国区のスターがいた。のちに自由獲得枠で西武に入団する細川亨である。石橋監督に言わせれば、「二塁に10球投げれば、10球全部ストライク送球できる」という正確無比な強肩を武器にする捕手だった。

 ただし、肩痛に苦しんでいた中村とはバッテリーを組む機会も少なく、中村は「細川が入学時からすごかったのは間違いないんですけど、何かエピソードがあったかというと覚えてないんですよね」と頭をかく。

 積年の肩痛が癒え、Aチームに加入し、さあこれからという時期。大学3年春のシーズンを終えた段階で、中村は突然、野球部を退部してしまう。「故障のため」という理由が流布されているが、真相は違った。

「当時のコーチの方と考え方が合わなかったんです。いま思えば、僕の心が幼稚でしたし、我慢も必要だったなと思います」

 青森大には中村のような県内出身者だけでなく、関東や関西からも選手が入学してくる。コミュニュケーション能力が高く、自己主張できる県外出身者に対して、中村は「どうせ俺なんて田舎者だし......」と引け目を感じていた。結局、公式戦で登板することもなく、中村は退部している。

 そして、中村は驚きの転身を決める。アメリカンフットボール部に転部するのだ。

「仲のいい高校時代の同級生が青森大のアメフト部にいて、誘われたんです」

 野球で磨き上げたフィジカルを生かし、基本的に敵陣に突進していくランニングバックを任された。だが、そこは「同好会に毛が生えたレベル」と中村が語るようなアメフト部。人数不足のためオフェンスだけでなくディフェンスも任され、1試合を終えると疲労困憊に陥った。

 大学4年までアメフトを続け、卒業後は「公務員でも目指そうかな」と考えていた。だが、そこで野球への思いが頭にもたげてくる。折しも、野球部の同期生だった細川がドラフト指名を受けた時期だった。

「野球自体は嫌いではなかったですし、もっとやりたい、もっとやれるという悔いがありました。軟式の草野球じゃ物足りない。硬式じゃなきゃ意味がないと思いました」

◆ダルビッシュが絶賛も突如、野球界から消えた強打者>>

 そこで、中村は実家に近い八戸市に三菱製紙八戸クラブという硬式クラブチームを見つけ、実家の畳店で働きながら所属することに決める。中村はそこで「初めてプロを意識した」という。

「高校までは『行けたらいいな』という夢だったのが、夢から目標に変えたんです。八戸のクラブチームでは、都市対抗に出られるレベルじゃない。なら、都市対抗の二次予選でアピールして、補強選手に選ばれるしかプロに行く道はないと思いました」

 社会人野球には都市対抗野球大会というビッグイベントがある。出場チームのほとんどは潤沢な資金と厚い選手層を誇る企業チームで、各企業が威信をかけて観客を動員して応援合戦を繰り広げる。当然、有望選手も数多く出場するため、プロスカウトも大挙して視察に訪れる。

 都市対抗には予選で敗退したチームから一定数の選手をレンタルできる補強選手という制度がある。中村はこの制度に目をつけ、都市対抗に出場する強豪チームに自分を引っ張ってもらおうと計画したのだ。

 そのためには、当然レベルアップしなければならない。三菱製紙八戸クラブの練習は全員集合できるのは大会直前など、限られた期間しかない。中村は「自分一人でやるしかない」と腹を決めた。

「自営業なので、時間は自分でつくれましたから。とにかく毎日走ろうと決めて、雪の上でも走っていました。ウエイトトレーニングは公共施設でやって、投球練習はネットスロー。自宅でもやれることをやっていました」

 しかし、なかなか成果は表れなかった。高い障壁になったのは、都市対抗予選で対戦する企業チームの雄・JR東日本東北だった。そこには、のちにプロ入りして最多勝利のタイトルを獲得する大投手がいた。

「攝津(正/元・ソフトバンク)と投げ合う機会が多かったんですけど、コントロールがよくて、テンポもよくて、歯が立たなかったです。彼の『プロに行きたい』という強い思いも伝わってきましたね」

 クラブチームでの最初の2年間は思うような結果が出ず、補強選手に選ばれることもなかった。それでも野球を続けたのは、中村のなかに「だんだん内容はよくなってきている」という手応えが芽生えたからだ。

 迎えた3年目、中村を擁する三菱製紙八戸クラブは都市対抗東北二次予選で秋田の企業チーム・TDKと対戦する。試合は0対2で敗れたものの、中村はアピールするには十分の好投を見せた。

 この試合後、中村は関係者を通じて意外なことを知らされる。

「日本ハムのスカウトが、おまえに注目しているみたいだぞ」

 TDKの選手目当てで視察に訪れた日本ハムのスカウトに、中村の投球が目に留まったのだ。中村は「道が拓けてきたな」と胸を躍らせた。

(後編につづく/文中敬称略)