「社会人野球でも戦力外」元プロが挑む意外な道
社会人野球でも目立った成績を残せなかった矢地健人。引退から3年が経った(写真:TBSテレビ)
華やかなプロ野球の世界。活躍した選手には名誉と莫大な報酬がもたらされる一方で、競争に敗れ、表舞台から去りゆく選手がいる。そんな「戦力外通告」を受けた選手をドキュメンタリーで描いてきたのが、TBSテレビの『プロ野球戦力外通告』だ。12月29日(火)夜11時10分からの放送回で通算17回目を迎えるこのシリーズ。プロ野球選手の姿は特別ではなく、誰の身にも起こりうる『究極のリアル』でもある。放送を控え、過去の番組に関わるサイドストーリーを取材班が5回にわたってリポートする。
第4回は矢地健人(やち・けんと)。2009年オフに中日ドラゴンズから育成1巡目で指名を受け、入団。2010年に支配下登録されたが、活躍できずに2014年戦力外通告を受ける。その後、千葉ロッテマリーンズの入団テストに合格し、契約を結んだが、2015年に2度目の戦力外通告を受けた。マリーンズ退団後は、社会人野球チームの新日鐵住金東海REXに入団。ただ2017年に3度目の戦力外通告を受けて引退。今は社業に専念している。
第3回:プロ引退1年、森福允彦を今も支える2つの武器
チームの戦力になれなかった
「来年は、上がろうか」
3年前の秋。監督室で、矢地健人はそう告げられた。それは矢地にとって人生3度目の戦力外通告だった。“上がる”とは、現役引退を意味する。
「戦力となれず、申し訳ありませんでした」
頭を下げ、監督室をあとにした。
中日、ロッテでも戦力外通告を受けた矢地。プロ生活は6年間だった(写真:TBSテレビ)
矢地はプロ野球で6年間、投手としてプレーした。最初の戦力外通告は2014年の秋だった。5年間で17試合に登板した中日から言い渡された。合同トライアウトでロッテから声がかかり、翌2015年は1軍マウンドに10試合立ったが、その年の秋、またも戦力外通告を受けた。これを最後に華やかな舞台から去ることになる。
プロ野球選手としてのキャリアには終止符を打たれたが、野球人としては続きがあった。ロッテを解雇された直後の合同トライアウトがきっかけで、社会人野球の新日鐵住金東海REX(現・日本製鉄東海REX)に2016年から採用されたのだ。
しかし、アマチュアでのプレーは2年で幕を閉じた。主要試合でマウンドを任されず、2017年秋に現役引退を勧告された。これこそが冒頭の“3度目の戦力外通告”だ。矢地は当時29歳。チームの投手陣では最年長だったし、社会人選手はこれぐらいの年齢で引退することが多いから、ごく一般的なケースではある。ただ、矢地にとっては悔いが残った。
「チームの戦力になれず、本当に申し訳ない思いでした。自分が野球をできなくなることよりも、その気持ちしか出てこなかったです。自分は拾ってもらった身。採用してくださった監督の顔に泥を塗ることになってしまい、つらかったです」
プロ引退後は社会人野球で再スタートを切った矢地だが、実はその1年目、思わぬ試合でリズムを崩していた。社会人野球の最も大きな大会である「都市対抗」の東海地区2次予選。東海REXは初戦でクラブチームの「奥伊勢クラブ」と当たり、矢地は7回表からマウンドに上がった。
東海REXでは1年目でリズムを崩してしまっていた(写真:TBSテレビ)
試合は32-1で東海REXがリードしていた。野球の試合とは思えぬ大差だ。これには理由があり、都市対抗予選には、野球部をもつ企業だけでなく、クラブチームもエントリーする。
クラブチームは、企業チームとは形態が大きく異なり、会社からの手厚いサポートはない。それ以前に、母体会社そのものがないことも多い。エリート選手も皆無だ。そのため、戦力的には企業チームが圧倒的優位で、東海REXと奥伊勢クラブの一戦も大きく差が開いていた。
ところが、31点リードした相手に対し、前年までプロのユニフォームを着ていた矢地が2点取られる。都市対抗予選の雰囲気を味わうための調整登板の意味合いはあった。けれども、決してクラブチームを見下したり、大差で手を抜いたりしたわけではない。むしろ矢地は「全力でした」と言う。
「結局は、僕のメンタルの弱さです。サードゴロの送球が少し逸れて一塁が際どいタイミングになり、セーフと判定されて。それで『えっ』と思ってしまったんです。そこから、力みに力み倒して(2点を取られる)という……。この点差なのに何やってるんだと今は思いますけど」
主戦力になれなかった結果を受け止める
一度崩れたリズムはなかなか戻らない。続く試合でも精彩を欠いた。記録を見ると、守備陣の失策が失点に結びついたケースもある。肩やヒジが常にベストコンディションなら苦労はないが、そうもいかない。しかし、本人はそれらを言い訳にしない。主戦力になれなかった結果を受け止める。
「社会人2年目にチームは都市対抗予選を勝ち抜き、7月に東京ドームで行われた本戦でベスト8に入りましたが、僕の登板機会は巡ってこず、潮時かなと……。それでも、初動負荷トレーニングを取り入れて球速は150キロ近くまで戻り、まだいけるんじゃないかという思いもありました。プロで戦力外になったときと同じような雰囲気、気持ちになっていました」
必死にもがき、諦めたくない思いとは裏腹に、忍び寄る現実に薄々気づかされてもいた。社会人野球でプレーする中で、周囲からの“元プロ”という視線は感じていたのだろうか。
「かなりそれは感じましたし、自分も意識しすぎていたのかもしれません。プレッシャーもあったと思います。ストレートの威力が戻ってきたこともあり、知らないうちにプライドが邪魔したのか、最後の最後で力勝負に頼ってしまい、打たれました。力だけではだめだと、もっと早く気づいていたらよかったです」
矢地の最大の魅力は、サイドスローから勢いよく走る150キロ近いストレートだ。武器を前面に出すこと自体は決して間違いではない。抑えてチームに貢献した試合もある。主にリリーフとして公式戦の4割ほどに登板した。しかし、投手としていろいろな引き出しを機能させていたら、もっと活躍できていたはずだ。今はそう客観視している。
「もうちょっと社会人でやれるかな、と自信もあったので、悔しかったです。元プロだから、というわけではありません。プロの2軍時代、社会人チームと交流試合をしたときには抑えていたので、まだ自分の力が通用すると思っていました」
別の場所で野球を続けよう、とは思い及ばなかった。
「ここ(東海REX)が最後だと決めていたので、これ以上続けようとは思いませんでした。自分としてはホッとした部分もあります。野球はしんどいけれど、楽しかったです。
社会人2年目のとき、当時3歳近かった長男に自分のユニフォーム姿を見せられたのは最後の思い出になりました。チームが都市対抗の本戦に出られたので、東京ドームでの試合に家族を連れていったんです。僕の出番はありませんでしたが、ベンチには入っていました。
長男は6歳になった今、テレビで野球の映像を見ると『パパもやってたんでしょ』とか、『この選手とパパとどっちがすごいの?』と聞いてきます。最近も、テレビに東京ドームが映ったとき『ここ来たこと覚えてる?』と僕が聞いたら、『覚えてるよ』と言ってくれました」
社業に励み、幸せな時間を家族と
白球を置いてから3年が経った。プレーヤーとして引退勧告を受けても、社会人として“戦力外”になったわけではない。一人の人間として人生は続いていく。第2の人生のほうが長い。矢地には励み、守るべきものがある。今の仕事であり、家族だ。
社会人野球を引退した後は社業に専念している。TBSテレビ『プロ野球戦力外通告』は12月29日夜11時10分から放送(写真:TBSテレビ)
社会人野球の選手はプレーヤーを引退後、そのまま所属企業で社業に専念することも多い。矢地が2016年からプレーした東海REXは新日鐵住金(現・日本製鉄)を母体としている。矢地は当時から同社の正社員だ。
「もう引退して3年経つんですね。社業に専念して3年続けられるとは思っていなかった。最初のころは苦痛で苦痛で胃が痛くなって、家に帰ってからしばらくうずくまっていました。野球とは別のストレスを感じていました。会社で何をやっていいかわからず、ずっとこの生活なのかと……」
生活は一変した。プロでは野球が仕事だったし、社会人野球のプレーヤー時代も練習や試合がメインだった。社業への専念は業務の内容も変わり、ゼロからのスタートとなる。パソコンや基本的な機器の操作方法もわからず、電源ボタンを探すところから始まった。職場で飛び交う業務の話も理解できない。右も左もわからぬ状況に、体が拒否反応を示した。
それでも、勤め人として3年続いた。どの業界でも3年働けば、ひと通り仕事を覚え、適応を示す頃だ。「まだまだわからないことが多すぎて……」と本人は学びの必要性を感じているが、一社会人として壁は越えたと言えそうだ。業務は事務仕事と、工場での仕事が半々ほどだという。疲労困憊で家路につく日々だが、立派なビジネスマンになった。
仕事を頑張れるのは、家族の存在があるからだ。もともと矢地が同社に入社したタイミングは、人生の大きな節目と重なった。結婚式である。
婚姻届は、中日に在籍していた2014年4月に提出した。シーズン終了後に式を挙げるつもりだった。だが、「2年連続クビ」という荒波に直面する。2014年は長男の誕生を控えた中、秋に中日をクビになった。翌年、ロッテ入りして1軍登板を果たし、その年のシーズンオフ(12月)を挙式日として結婚式場を予約した。しかし、10月にロッテをクビになってしまう。
結婚式を無職では迎えられない――。当時、TBSテレビ『プロ野球戦力外通告〜クビを宣告された男たち』では、そんなナレーションのもと、矢地がトライアウトに挑む姿を放送した。トライアウトでの投球が目にとまり、新日鐵住金東海REXの採用が決まった。結婚式の1カ月ほど前だった。
今も家族の温かさに支えられて、仕事に取り組んでいる(写真:TBSテレビ)
「こんな人と結婚したのか、と思われてしまったら嫁さんに申し訳ない。結婚式までには(次の道を)決めたかった、という思いもありました。プロ野球界へのこだわり? ないわけではありませんでしたが、声がかからないとできない世界ですし。それに、家族あっての僕でもあるので」
プレーヤー引退後の現在、矢地の勤務はシフト制だ。夜勤もある。妻や子どもたちの生活サイクルと合わない日もあるが、土日が休みなら家族との時間にあてる。夜遅くまで仕事した翌朝もなるべく早く起き、朝ごはんを一緒にとる。保育園へも送っていく。
「長男は今6歳になり、下の子は4歳になりました。夜寝るとき、2人が僕の布団に入ってきて、両横でくっついて寝てくれることが本当にうれしい。妻と4人で一緒にごはんを食べているときが、自分にとって最も大切な時間です。男の子2人なので普段はうるさいし、玄関は彼らの足のニオイでくさい気がしますが(笑)、それが幸せなのかなと思います」
己の右腕一本で戦った男がつかんだ幸せ
数々の試練を経てたどりついた今の環境。特に矢地の場合は、プロ野球選手といえど、華やかなイメージのそれとは事情が違った。
ドラフト指名は1段階低い「育成選手」としての指名で契約金がなく、わずかな支度金が出る程度。這い上がって1軍マウンドに立ったが、レギュラー争いを勝ち抜けず、年俸も多くはなかった。明日の保障なきプロの世界で、己の右腕一本で戦い、ときにファンを沸かせた矢地が、たしかな幸せをつかんでいる。
一方で矢地は今、ビジネスマンとしての領域だけにとどまろうとはしていない。生活の基盤を築いたうえで、急速に世界を広げている。
きっかけは2年ほど前だ。高岡一高や中日の先輩で、親交ある高橋聡文(元中日〜阪神)に電話したときのことだ。
「聡文さんと電話で何気ない話をする中で、僕の近況の話にもなりました。その中で聡文さんから『それだけで人生楽しいか?』みたいなことを言われて、それが僕の心に響いたんです」
先輩のアドバイスに背中を押され、2019年、ユーチューブにチャンネルを開設した。プロ時代の裏話だけでなく、外野席から中日戦を観戦したり、ファンの交流会に潜入したりもした。プロ引退直後の高橋が友情出演する回もある。
「その当時はまだ、元プロ野球選手のユーチューバーは少なかったと記憶しています。高木豊さん(元大洋ほか)など数人でした。編集も自分でやるので、最初は特に時間がかかりました。仕事から帰ってきて子どもの世話をして、そのあとに取りかかっていました」
ユーチューブで元プロ野球選手の配信が増えてからは、配信サイト『ふわっち』に舞台を移した。あえて未開拓の地を選んだ。
「知名度のある人が集うところに僕がいても、あまり意味がないと思って。少しでも人と違ったことをしていきたい。もしも将来、何かのときに『矢地おったな』と思い出してもらえていたら、自分にもメリットになるんじゃないかと考えました」
今年の暮れに放送されるTBSテレビ『SASUKE』への出演も、『ふわっち』がきっかけで実現したという。番組ホームページの紹介では「元プロ野球選手」と並び「ふわっちライバー」の肩書がある。
「昨年出場した岡田さん(幸文/元ロッテ)の記録はまず超えたいと思っています。トレーニングで4キロ、体が絞れました。想像よりも早く現役時代の体に戻っています。放送を楽しみにしていてください」
構想はさらに広がる。ネットワークも生かしながら、いつかは服飾関係のジャンルにも関わってみたいと描く。
「まずは自分自身が楽しんでこそ、だと思います。それも(高橋)聡文さんに言われたことなんです。休みの日にだらだらしているだけではもったいない。それなら今頑張っていきたい、という思いです。仕事や家庭をメインにしながらも、プラスアルファでどんどん広げていきたいです」
同時並行で広がる「第3の世界」
職業欄に記す身分は会社員でも、ライバー活動のクオリティは趣味の域にとどまらない。「会社員」と「矢地健人」の二刀流だ。1つの道に専心するのも立派だが、一方で多様な世界での活躍もその人の評価を高める。
今は会社員とライバー活動の「二刀流」に挑んでいる。TBSテレビ『プロ野球戦力外通告』は12月29日夜11時10分から放送(写真:TBSテレビ)
会社の規程上、事務所などへの所属はできないが、メディアやSNSでの活動は一人で十分。先日、中日の大先輩・鈴木孝政氏のラジオ番組に出演したときは、たまたま上司がカーラジオで聴いていて喜んでくれたそうだ。
今回の取材の日は偶然にも、今年のトライアウトの実施日だった。数年前の自身を思い出す。
「トライアウトでは2度とも、前夜は眠れませんでした。目を瞑ってても『寝れんな……』と。自分では緊張しているつもりはなくても、人生で5本の指に入る緊張度合いだったと思います。
特に最初のトライアウトでは、自分の順番がまわってくる直前にトイレに駆け込みました。飲んだものが逆流してくるような感覚は初めてでした。マウンドに上がってしまえばいつも通りで、周囲に気を取られることはありませんが、それまでは幽体離脱のような、ふわっとした感覚でした」
こんな経験、われわれがしようと思ってもできるものではない。育成選手から不屈のハートで居場所をつかんできた男は、地に足をつけて第2の道を歩みながら、同時並行で「矢地健人」としての魅力を発し、第3の世界も充実させていく。
(文中敬称略、文:尾関雄一朗)