異質な存在を許さない職員室の「ムラ社会化」も教師を追い詰める(写真:mits/PIXTA)

業務負担が過大な日本の教員。加えて教員同士の人間関係のストレスや新型コロナの対応などで、心身ともに限界の教員が増加し、かつての聖職は今や「ブラック化」している。

「日本の教員があまりに疲弊せざるをえない事情」(2020年11月20日配信)、「毎年5000人が心を病む『教員』の過酷すぎる実態」(同11月27日配信)に続いて、教育ジャーナリストの朝比奈なを氏の著書『教員という仕事 なぜブラック化したのか』より、知られざる「職員室」の現状を紹介する。

「都立高校男性教諭体罰事件」から見えること

2019年1月中旬、1本の動画が物議を醸した。それはある都立高校の教室外で男性教員が男子生徒を殴る場面を他の生徒が撮影した約15秒の動画だった。テレビのワイドショーが体罰とこぞって取り上げ、当初は一方的に教員を責める声ばかりだった。

その後、この事件に関するもっと長尺な動画がSNS上で公開された。教室内での2人のやりとりも含んだもので、男子生徒が付けている装飾品を校則違反なので外すように何度も注意する男性教員、それに従わず挑発的な言葉と態度で教員を煽り、教室外に誘い出す男子生徒の姿が映されていた。

さらに、同じ学校の生徒から男子生徒が問題行動を何度も起こしていること、動画内に「Twitterで炎上させようぜ」との生徒の発言も入っており、計画的に事件を起こした可能性もあることなどがインターネット上で報じられた。

一方で、男性教員は50代のベテラン体育教員で、生徒思いの良い先生であるとの声が教え子たちから多数寄せられ、世間のこの事件を見る目は一変する。

学校側の対応も早かった。学校側の会見では、校長からこの教員は以前から生徒指導に熱心なあまり行きすぎがあり、今回も教員が感情的になってしまったとの説明があった。該当教員は生徒と保護者に謝罪し、事件は急速に忘れ去られていく。

単純な体罰事件のように落着しているが、筆者にとってこの事件は非常に印象的である。ここにも現在の教員の問題が鮮明に表れている。

長い動画には教員と生徒のやりとりが映る。生徒の挑発の仕方は、いわゆる「ヤンキー」の古典的なやり方である。2人が教室外に出ても他の生徒たちは教室内にとどまり至って静かである。次第に切迫した状況になり、教員、生徒双方から大声が発せられ、心配した生徒が数名出てくるのだが、他の教員の姿は全く見えない。

授業に集中できない生徒がいる学校では空き時間の教員が校舎内を巡回し、大声が聞こえた場合にはそこに駆けつけるのが生徒指導の常道なのだが、ここでは教員の姿は全く見えない。あくまで、1人の教員が孤軍奮闘しているのである。

この教員は同校の赴任が2018年4月で、その前は、東京に隣接する県の文武両道を校訓とする県立高校に勤務していた。赴任1年目なので同僚との信頼関係ができていないのか、あるいは教員の年齢構成上の問題があったのかはわからない。彼の生徒指導の方針が現勤務校の方針と合わなかったという可能性もある。

けれども、教員と生徒が一触即発になる場面は学校現場では最大級の危機であり、何を差し置いても同僚がその場に行くのは当然のことである。

「ムラ社会化」する教員集団

神戸市立東須磨小学校の教諭4人が後輩の教諭に暴行や暴言などを繰り返していた事件に際して、神戸市教育委員会は「仲間意識を大切にしてきた」と述べたが、地域も学校種も異なるとは言え、仲間が全くいないかに見える教員の姿がここにある。

表面的な「仲良しクラブ」ではなく真の「仲間」と言える関係が、現在の教員集団の中にどれくらい構築されているのだろうか。孤独な教員の姿に、この点を考えさせられる。

東須磨小学校の1件でもストレスが人間関係を変質させている可能性が考えられる。筆者が言うところの「教育困難校」と考えられる前出の都立高校でも、ストレスが強固な内集団を作り、それ以外の教員を孤立させていた可能性がある。

2つの事件から、管理職や教育委員会の構成員を含む教員集団の姿が変質していることに気づかされる。今の教員集団は構成員の同質化が進み、悪い意味での「ムラ社会」化が起こっていると筆者は見る。本来、「ムラ社会」には、その集団の構成員の間に信頼感を基にした一体感があり、自然災害や他集団とのトラブルの際には協同して行動するものだ。


しかし、現代の教員は「ムラ社会」特有の同調圧力は強く、自分たちの「集団規範」に従わない者、突出した言動をする者を許さない雰囲気はあるが、個々の構成員同士の信頼感がない。心の中で「ムラ社会」に疑問を持っていても、それを公にした際の制裁が怖くて何も行動できない。異質であることを異常に恐れる雰囲気が充満している。

2019年に耳目を集めた2つの事件は、このような今の教員集団の象徴のようだ。

この変質には、日本社会及び日本人の変質ももちろん影響しているが、それ以上に、「教育改革」と「教員改革」により進められたものと筆者は考えている。