そんな彼を救ったのが中山、秋田豊(盛岡監督)、森島寛晃(セレッソ大阪社長)らベテラン勢だった。主力から外れていた30代トリオは、大会を通してサポート役に回ることが多かった。98年フランス大会惨敗の悔しさがある分、2002年日韓大会でリベンジしたい思いは人一倍強かったはずだが、思うように出番は訪れない。そんな悔しさを決して表に出すことなく、チームのために黒子に徹する姿を目の当たりにして、キャプテンは自分のやるべきことを再認識できたという。

「みんなスタートから出られないのに、雑務とかを率先してやっていました。僕のことも気遣ってくれて、どれだけ助けられたか分かりません」
 
 森岡はベテランたちに心から感謝すると同時に、自らも用具や水を運んだり、練習の準備を手伝うなど、懸命にチームを支えようと試みた。地味な仕事を一緒にやっていた森島がチュニジア戦(大阪)で先制点を叩き出した時には、ベンチから飛び出して喜びを爆発させた。この試合を2-0で勝利した日本はグループリーグを首位突破。史上初のベスト16進出を決めた。自国開催のアドバンテージがあったとはいえ、わずか3戦で1点しか取れなかった4年前を考えると目覚ましい前進を見せたのは間違いない。

 ただ、当時のチーム関係者が「選手たちに浮かれた雰囲気があった」と証言した通り、日本中がお祭り騒ぎになった分、どこかで過信と油断が生まれたのかもしれない。それがラウンド16・トルコ戦(宮城)の0-1の敗戦につながったと見る向きもある。土砂降りの雨のなか、持てる力を出し切れないまま負けた傷はチーム全員に刻まれたが、森岡にはより深く感じられたようだ。

「その場から逃げ出したい気持ちになった」と本人は述懐しているが、自分が万全だったらチームをもっとしっかりと引き締め、上を目指すような空気を作れたのではないかという後悔も抱いたことだろう。

 不完全燃焼の想いが残るなか、世紀の祭典は幕を閉じたが、キャプテンとして試合に参加できない悔しさ、ベンチから仲間を支える大切さ、それを率先してやってくれたベテランの心意気……など、森岡が感じたことは少なくない。その一つひとつがその後の日本代表の大きな財産になったはずだ。悲運のキャプテンが試行錯誤を繰り返しながらリードした2002年の日本代表は、高度な一体感を持った集団だった。それは今、改めて強調しておきたい点である。

文●元川悦子(フリーライター)

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