イラストレーターとして活躍し、法廷画家の仕事もしている榎本よしたかさん。家族に翻弄されながらも「絵で食べていく」ことをやめなかった彼の原動力とは?(筆者撮影)

これまでにないジャンルに根を張って、長年自営で生活している人や組織を経営している人がいる。「会社員ではない」彼ら彼女らはどのように生計を立てているのか。自分で敷いたレールの上にあるマネタイズ方法が知りたい。特殊分野で自営を続けるライター・村田らむと古田雄介が神髄を紡ぐ連載の第54回。

傍聴席から裁判の様子を見て、瞬間の場面を素早くつかみ取る。容疑者の感情や法の番人、関係者たちがつくる場の空気、それらをありのままに1枚の絵に仕上げるのが法廷画家の仕事だ。

法廷画は今日ではテレビや新聞ですっかりおなじみの存在になっているが、多用されるようになったのはオウム事件の頃から。実は4半世紀程度の時間しか経っていない。イラストレーターの榎本よしたかさん(42歳)は、2003年から15年以上この世界の第一線で活躍している。


2015年10月にマイナビ文庫から『トコノクボ くじけない心の描き方』が出版された。2014年1月には電子書籍版も販売している(写真:よしたかさん提供)

父のDV(家庭内暴力)や借金、家族の扶養に苦しみながら腕を磨きあげて今がある。2015年には自らの半生をマンガにした『トコノクボ』を出版した。家族観には複雑なものがあり、ツイッターのプロフィールには「『榎本さん』より『よしたかさん』と呼ばれるほうが好きです」とも書いている。それでも名字を外さず本名で活動し続けているところに、どうやらよしたかさんの本質があるようだ。

スチームパンクな調度品に彩られた自宅兼仕事場で2時間インタビューさせてもらい、そう思った。

小学生の頃には「絵で食べていく」と考えるように

よしたかさんは1977年2月、和歌山県和歌山市の港に近い町で船乗りの家の末っ子として生まれた。


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物心ついた頃には暇さえあればチラシの裏や余白に絵を描くようになっていて、小学生の頃には「自分は絵で食べていく」と考えていたという。

絵が好き、でとどまらず、絵で食べていく、という発想になったのは家庭環境の影響が大きい。父はよしたかさんが6歳の頃に脳梗塞で倒れ、後遺症から昔のようには働けない身体になっていた。

日曜日だけ遊漁船を出し、平日は親戚の工場でリフトに乗る仕事をあてがってもらっていたが、周りと頻繁にトラブルを起こし、家では酒に溺れる日々を送るようになる。うまくいかないフラストレーションは暴力となって家族に向かった。

「母は母で、『お金がない』『お金がない』というだけで行動しない。本当にピンチになったら、親戚に無心にいく姿を見て子ども心に、お金がないとこんなに惨めなんだなあ……と思っていました」

対価がもらえる成果物としてイラストを捉えたとき、あらゆる文献が教科書になった。書店に並ぶ本だけでなく、自治体が発行する冊子にも、保険のパンフレットにもイラストが使われている。地域のイベントに集まる家族のイメージ画なら、適度に抽象的で適度に普通の身なりの家族が描けないといけないし、傷害保険だったら事故に遭ったり包帯を巻いたりした同じタッチの老若男女の絵が求められる。


イラストを1日に何カットも仕上げる必要があり、スキルをどんどん磨いていった(筆者撮影)

そして、それを1日に何カットも仕上げる必要があるから、スピーディーに描けないといけない。人体を骨格から、クルマや家具は構造から理解し、それらを1枚の中に正しく配置するために透視図法を学ぶ必要もある――。運動が苦手で、学校の勉強も好きではなかったが、絵だけは誰に言われるともなくスキルを磨いていった。

中学校を卒業し、工業高校のインテリア科に入学したあとも、イラスト好きな友達の中で同じ視点で語れる人間はいなかった。そういう意味で孤独だったが、周囲に期待しないことは慣れっこでもあった。家では相変わらず父親が暴れ、母親は愚痴を言うだけで動かない。「こうなってはいけない」と両親を反面教師として冷めた目で見ていたから、反抗期も一切なかった。

「よそと比べても仕方がない。比べたら惨めになるだけだから。ちょっと難しいけど、そう思っていました」

まずは3年間、社会勉強のつもりで就職

高校を出ると地元の家具メーカーに就職。いきなり絵で食べていくには足りないものが多すぎるので、まずは3年間社会勉強しようとの考えだった。

それからは、自宅から45km離れた工場で始業1時間前の7時から働くために朝5時半に家を出て、早くて21時に帰宅するのが日常になる。夕食や風呂などを済ますと23時のニュースの時間。そこから0時過ぎまでの自由時間を絵の勉強にどうにか充てて月曜から土曜日を乗り越えていく。

仕事にはすぐに慣れて、CAD設計からプロトタイプの製作、クライアント先との交渉や打ち合わせまで担うようになる。職場はホワイト企業とは言い難く、上司や先輩の怒号が飛び交う環境であったが、それでも仕事そのものは楽しかった。自分が設計した家具が実際に製造されて、全国の小中学校や大学の講義室などに設置される。その喜びを支えに、7年7カ月間勤めた。


よしたかさんの仕事場。「インテリアデザイナーだったこともあって、インテリアは好きなんですよ。だから仕事場も作品だと思っています」(写真:よしたかさん提供)

当初の予定から大きくずれ込んだ裏には家庭の事情がある。就職して2年目の頃に父親が2度目の脳梗塞を起こし、今度は寝たきりになるほど重度の後遺症が残ってしまった。

母は介護に明け暮れ、宗教を心の拠り所とし、よしたかさんが生活費を家庭に入れても少なくない金額をお布施に使ってしまう。同居する父方の祖母は父親を溺愛するばかりで、上の兄弟はすでに家を出ているなどして助けにならずという状態。もともと悪かった環境はさらに劣悪さを増していた。

仕事、家庭のストレスが募る。とても職を辞してステップアップする余地はなかった。直接の原因は不明だが、自分の意思では止められないさまざまな発作が襲う難病・トゥレット症候群をこの時期に発症し、現在まで抱えている。

ただし、ただ黙って耐えていたわけではない。就職後まもなく、仕事を通して地元地方紙にできた縁から4コママンガの連載枠を得て、通信教育で素早く油絵を仕上げるWet-on-wet技法を取得して、日曜日にカルチャーセンターで講師を勤めるなど、絵で食べていく道の模索を続けた。

「油絵の講師はあがり症を克服するためという意図もありました。絵を描く仕事とはいえ、個人事業主になるならいつかは人前でしゃべる機会が出てくると思ったので。

とにかく20代の頃は『去年の自分より今年の自分のほうができていることが増えている』ということを目標にし、それを実感しながら生きていた感じでした。せっかくこれだけ時代が動いてきているんだから、もっと勉強してやれることを増やしていかないとなって」

“時代の変化”が指すのはデジタル化だ。

よしたかさんがインターネットに触れたのは1998年。そこに無数に散らばっている個人のホームページに魅了された。全世界に向けて自分の意思や能力を伝えられる。しかも無料で。

イラストの世界にデジタルが台頭することを確信

本格的にサイトを作るべく、なけなしの貯金をはたいて安価なパソコンを買うと、デジタルペイントの可能性にも気づくことになる。どれだけ描いても画材がいらない。

ペイントソフトや入力用のタブレットをそろえれば、あとは絵の具やキャンバスなどその都度買い足さなくても絵が描ける。自分が何者であるかを発信し、ランニングコストを限りなくゼロに抑えて成果物が作り出せる。この頃からイラストの世界にデジタルが台頭することを確信していた。

もう1つ、2001年に大阪芸術大学の通信教育部へ入学しているのも見過ごせない。

1999年末、自分に足りないものはアカデミックな教育ではないかと感じていたところに大阪芸大が通信教育を始めるという情報を雑誌で知り、何としても入学したい思いに駆られた。4年間の学費はざっと見積もって120万円。今の給料ではとてもじゃないが捻出できない。

しかし、自衛官の友人が、海上自衛隊の二等海士は満期の3年間を勤め上げれば退職金が120万円が手に入ると教えてくれた。生活費を稼ぎながら学費の心配もしなくて済む道はそれしかない――そう思い3年間自衛隊に勤めながら通信大学で学ぶ計画を立て、深夜の自由時間を体力づくりと学術試験の勉強に充てるようになる。

その結果、2001年に二等陸海空士及び曹候補士の試験を受けて合格。転職を決意したが、そのタイミングでアメリカ同時多発テロが発生する。時の首相がアメリカ大統領の宣言する「テロとの戦い」をいち早く支持したことで、自衛隊参戦の可能性がにわかに高まった。

「もし入隊中に戦争になったら……。自分は自衛隊員として戦うだろう。けれど、それで通信大学の勉強ができなくなるのでは本来の目的から乖離してしまいます」

悩んだ末に根幹に立ち返り、入隊を辞退。学費が給料で払えないのならばフリーランスになってから稼いでやろうと決意する。

フリーに転身後、法廷画の依頼が舞い込む

そうして、家具メーカーを退職して、晴れてフリーランスのイラストレーターになったのは2002年の10月、25歳のことだった。

担当していたプロジェクトが終了し、社内の引き継ぎも終え、寝たきりとなった父が食道ガンで亡くなったタイミングだった。もう治療費はかからない。しかし、死後も父の借金は残ったし、今度は祖母が介護される身になった。なおも家族の鎖が重く縛り付けるが、前に進むと決意した。借金返済と大学の学費、家族の扶養と自分の生活費をあわせて月35万円は必要だったこともあり、「とりあえず会社員時代の倍、年収500万円を目指しました」。

つてはほぼゼロだったので、営業活動は思いつく限り何でもやった。自分のホームページにはさまざまなタッチの自作イラストを載せ、地元の出版社や印刷会社を回り、コンテストへの応募やイラストサイトの登録もした。

努力のかいあって、数カ月経った頃にはちらほらと仕事の依頼受けるようになったが、それでも月収は10万円程度。足りない分はCADオペレーターの派遣業でまかない、どうにか一家を破綻させずに支えた。

法廷画の依頼が地元のテレビ局から舞い込んだのは、フリーになった翌年の夏のことだ。

和歌山地方裁判所で開かれる元和歌山市長の公判があり、その日の夕方のニュースに使いたいという。それまで担当していた法廷画家が高齢で引退したため、地元で活動しているよしたかさんに声がかかった。公判は午前から2時間半。その後数時間で2〜3枚の絵を着色するなどして急いで仕上げて納品。すると、その2時間後にはテレビの全画面に自作の法廷画が映し出されていた。

テレビ局からの依頼も裁判の傍聴も初めての経験だったが、法廷画は自分に向いていると思った。

「法廷画は時間勝負で、見たものを見たまま素早く描くスキルが求められます。僕が積み重ねてきたものとマッチしていると思いました。凄惨な事件の公判には気が滅入ることもありましたが、数をこなして事件と心の距離を保つことを覚えました」

それから地元や関西で大きな公判があると法廷画の依頼が届くようになる。しかし、ほかの多くの仕事は首都圏の会社からの依頼だったので、加盟している「日本イラストレーション協会(JILLA)」のシンポジウムをきっかけに、東京へ営業ツアーを慣行し、積極的に仕事の間口を広げていった。当時は営業と制作に充てるリソースは5:5という意識で動いていたという。

「知ってもらわないと話が始まらないですから。いい絵を描いてさえいれば、いつか誰かが見つけてくれて自動的に価値が認められる……というのは幻想だと思うんです」

結果が形になってきた頃、ショックな出来事が

がむしゃらに働いた結果がようやく形になってきた頃、ショックな出来事が襲う。身内が借金を数百万円ほど作り、よしたかさんのクレジットカードを盗み、無断でキャッシングしていたことが発覚したのだ。身内ゆえ、法に委ねるとこちらは被害者であるが同時に加害者の身内にもなってしまう。

さまざまな方面にかけあったが、やはり警察の厄介になることは難しく、結局泣き寝入りするしかなかった。もちろん、ほかの家族が手を差し伸べてくれることはない。

最終的に身内は施設に預けることになったが、よしたかさんの預金は戻ってこないし、父の借金とは毛色の違う闇金からの取り立てもやってくるようになってしまった。まだ継続中の問題のために今も子細には明かせないものの、このときのストレスは本当にたまらなかったと噛みしめる。


トラブルを対処したことは絶対に自分の自信になる。……時間はかかりましたけど、そう思ってやりすごしました(筆者撮影)

「もう、やってられなかったです。自己破産の費用までこっちが捻出するしかなくて、加害者のほうがのうのうと過ごしているっていうね。

でも、別に得するためにまじめにやっているわけではないからな、とも思っていて。まじめなやつほど馬鹿を見るとか、正直な奴ほど損をするとか、そういう思想は捨てました。

因果律はどうしてもよくて、重要なのは何か起こったときにどう対処できるかだと。その対処できる能力を身に付けておこう。これからの人生もきっとこんなことが待っていたりする。そう考えると、このトラブルを対処したことは絶対に自分の自信になる。……時間はかかりましたけど、そう思ってやりすごしました」

さまざまな問題を抱えながらも仕事は順調で、CADオペレーターの派遣をせずに本業1本で食べていけるようになるまで時間はかからなかった。法廷画の仕事はキー局の番組からも届くようになり、28歳の頃には年収600万円に到達。フリーになった際の目標をクリアし、次は年収1000万円を目指すことにした。

すると、より多くの仕事をするために、クライアントの多い東京に事務所を構えるというアイデアが浮かび上がってきた。家庭にかかる諸々の費用は月額35万円。自分の生活費と家賃は切り詰めて15万〜20万円。やれなくはない。30歳の頃に東京都小金井市に事務所を開設する。

それからは月の半分を東京で過ごすのが日常になった。1日16〜18時間働かないとこなせない仕事量に忙殺されてはいたが、そこには生まれて初めて味わう、家庭のしがらみのない自由があった。

自分の意思で好きに使えるお金が手元に残るようになったのもこの頃からだ。リフレッシュのために人生初の海外旅行をし、そこで同じツアーに参加していた日本人女性と知り合い、やがて結婚することになる。年収1000万円の目標は“半上京”して1〜2年のうちに達成した。


自伝マンガ『トコノクボ』。2012年10月から作品をアップしている。文庫本未掲載や一部加筆修正した作品も読める(よしたかさん提供)

そして2012年、35歳のときに父の借金を完済する。父の死からちょうど10年後、フリーランスになってちょうど10年というタイミングだった。「これでようやく過去との決別ができた」ということで、記念に自らのホームページで自伝マンガ『トコノクボ』を連載するようになる。評判が評判を呼び、2015年にはマイナビ出版で書籍化された。

この『トコノクボ』には、これまでたどってきた過酷な半生がギリギリまで具体的に描写されている。イラストレーターとしてのサクセスストーリーを読もうとすると、家庭のドロドロも同時に流れ込んでくる。「けっこう露悪的」だと自嘲するが、そこには確固たる戦略がある。

唯一の人間だということが伝わってくれたら…

「自分と似たタッチの絵が描ける人なんてゴマンといるわけで、そこで仕事をもらおうとしたら他者と区別する情報を提示しないといけません。そのために自分の経験を伝えていこうと考えました。自分とまったく同じ経験をした人はまずいない。こういう経験をしてきた唯一の人間だということが伝われば、『この榎本よしたかという人間に注文してみよう』ってなるかなと思ったんですよ。


榎本さんの公式ホームページ「Yoshitaka Works」のギャラリーページ。法廷画だけでなく、さまざまなタッチの作品を掲載している(よしたかさん提供)

せっかく知ってもらうためにホームページを立ち上げても、変にパーソナルな部分を隠すと、『この人に仕事を頼んで本当に大丈夫なのかな……』と相手を踏みとどまらせてしまう。安心して依頼してもらえるというのはすごく重要ですから」

仕事をもらうための自伝だから、自己満足にふけることもないし、無駄にすべての要素をさらけ出すこともない。持病のことにマンガで触れていないのも、隠しているわけではなく、特に受注にプラスになる情報ではないと判断したためにすぎない。

「もう20年以上もトゥレット症候群ですから、人前で発作が出ても今更何とも思わないです(笑)。自分でコントロールできないものはコンプレックスを抱いても仕方がないですからね。世に知られていない病気なので「こういう難病があるんですよ」というマンガをいつか描こうと思っていますが、それは公の利のためであって、自分のアイデンティティを紹介する意味ではいらないと判断したんですよ」

この考え方は「榎本」を外さずに本名で活動していることにも通じている。

「自分の名前は『よしたか』だと思っています。名付け親は両親ではなく神社の宮司だと聞いています。漢字で書くと『祥孝』ですが、ほとんどそう読まれたことはありません。読まれない漢字に意味はないと思っているので、ひらがなで『よしたか』。榎本は親の名前であって、本当はどうでもいいんです。

ただ、名字がないと、郵便物を受け取るときに『あの、こちらはよしたかさんのお宅ですか?』となって面倒が増えるじゃないですか。ペンネームでも1枚フィルターがかかるから、本名で活動するのが便利だなと。それだけです。請求書に押す判子も安く手に入りますし(笑)」

過去を拒絶するでも封印するでもなく、これからの自分に生かせるように淡々と利用する。絵で食べていくために、絵の技術を身に付けるだけじゃなく、世間に求められる絵のテイストを学び、社会勉強し、あがり症を克服して過去の歩みを開示する。このロングスパンで一貫している戦略眼がよしたかさんの強さの本質なんじゃないかと思った。

一生、「絵で食べていく」

現在、よしたかさんは拠点を東京郊外に完全に移し、妻と2人の娘、家族4人で暮らしている。夫婦で協力しあって育児をしつつ仕事する日々。営業はほぼしていない。こちらが動かなくても次々と仕事が舞い込んできて、むしろ断らなくてはいけないことが多くなっているためだ。

よしたかさんの「絵で食べていく」に引退の2文字はなく、一生続けていきたいと語る。その目標に対して今はとても順風な状態にも見えるが、不安な要素を含んでいることを見落としてはいない。

新たな営業をして新規開拓していく余力がないと、自分が望む方向に舵を切ったり、数年後に芽が出るような企画を始めたりといったことがやりにくくなる。

加えて、仕事を断り続けると、「いつも忙しくてたぶん受けてくれないから……」と同じクライアントから次の依頼が届きにくくなったりもする。すると、次の手が打てないままに急に仕事がこなくなるなんてことも起きなくはない。50代、60代……先は長い。

依頼の増大に対しては生産力アップ、すなわち、数名の部下を募ってプロダクション体制を敷くのが1つの手段だが、その方向にはいかないと断言する。

「30代半ばですごく忙しい時期にチームでやることを検討したんですけど、性にあわないのでやめました。人に描いてもらった作品を修正する作業のほうがストレスは膨大で、自分は一生プレーヤーでいようと思いました。

これだけお金で大変な思いをしてきて、お金を稼ぐということをかなり真剣に考えてきたんですけど、そっちの稼ぎ方は望むものじゃないなと。自分で手を動かして生み出したもので対価を得て、それで生活していくというのが僕とお金の関係性の哲学になっています」

これからも1人、プレーヤーとして何とかしていく。今手元にある仕事を忙しくこなす現状だが、時間をつくってやりたいことはある。『トコノクボ』に続く自伝マンガを描いて、自ら電子書籍を発行してみたい。また、ウィットに富んだ風刺画も描いてみたい。

過度に攻撃的だったり、差別や偏見を助長したりするようなものではなく、品がよくて巧いものを目指し、それを世界に向けて発信する構想だ。これまでのように依頼を受けて描く仕事を続けながら、クリエイティブな方法で自分を出す種を植えてみたい――。

よしたかさんは、イラストレーターをよく料理人に例える。ある日のツイッターではこうつぶやいていた。

<世間に名を轟かせるカリスマシェフもいれば街の定食屋さんもいて、それぞれ必要とされて存在していると思うんです。>
<どの駅前にもひとつふたつある定食屋さんが地元民に愛されて長年経営できているように、有名ではないけれど、喜んでくれる誰かがいて、それを供給しつづけることで食べていけるというクリエイティブ界隈もあると思うんです。>
(2018年11月2日)

子供の頃から「自分は街の定食屋さん」だと思っているという。書店にいけば驚くほどうまい絵を描く人が大量に見つかる。

その中でも絵で食べていくと強く思えたのは、この発想があるからだ。法廷画で有名になったことも「風変わりな料理を出す定食屋」ということだと捉えている。近い将来、よしたかさんの店にそんな風変わりな料理が増えているかもしれない。