映画版「太陽の季節」ポスター

「近頃の若いものは」――この言葉はかなり古くからあるようで、柳田國男は古代エジプト時代から、こうした年長者の愚痴が残されてきた、と紹介している(ただし真偽は不明らしい)。

もちろん、そうぼやく先輩方も、さらにその上の世代からこの言葉を浴びせられてきたわけである。昭和8年(1933年)生まれ、83歳のぶらいおんさんに、このあたりを尋ねてみた。

「若いもの」より恐ろしい「老醜」

年配者が、したり顔や、顰め面をしながら、「近頃の若いものは...」と口にするのは、確認したわけでは無いが、恐らく、それは人類が言葉を自由に操る時代になって以来、延々と繰り返されて来た繰り言の一つではあるまいか。

無論、斯く申す83歳の筆者もまた同様に、はっきり面と向かって年配者から、厳しく申し渡された記憶こそ思い当たらぬが、それと変わりの無い目で見られ、批判されたことは当然、有ったと考えられる。

それで、ここでは、そんな曖昧な記憶を辿るのでは無くて、筆者が生きて来た時代の中で、そんな、つまり「近頃の若いものは...」のセリフを代表するような、それも当時のマスコミなどに大々的に取り上げた事例を二、三挙げて示しながら、私見を述べてみよう。

昭和20年(1945年)の敗戦以来、日本の社会状況は、少なくとも表面上は大きく変化した。それまでの重苦しく押さえつけられた上、只管、当時の日本のリーダー達が声高に唱えた「聖戦(今で言えば、ジハードか)の完遂」のため、物資の欠乏から精神の自由まで、あらゆるものに対する欲望や希望が制限され、ただ抑圧と我慢だけを強いられて来た状況の箍(たが)が一挙に外れた。

その結果、無秩序とも思える、行き過ぎた道義心の低下、当時の最高権力を有する占領軍に対する追従などから派生する、新聞の社会面を賑わせるような事件が次々と起こった。

中でも、当時、人々の注意を大いに引いた事件であり、筆者(当時、旧制中学校1年生だったから、「近頃の若いものは...」と言われるような年齢にも達していなかったが)の記憶にも鮮明であった、日大ギャング事件(1950年9月22日)について、触れてみよう。

当時のことを思い出すと、直ぐに浮かんでくる言葉がある。それは「アプレゲール」(仏: apres-guerre)という言葉であり、それは戦後派を意味する語である。対義語は「アヴァンゲール」となる。

本来は、筆者が説明するまでも無く、第一次世界大戦後のフランスで、既成の道徳・規範に囚われない文学・芸術運動が勃興したことをさした。

しかし、省略形の好きな日本で「アプレ」という言葉が流行したのは、第二次世界大戦後である。戦前の価値観・権威が完全に崩壊した時期であり、既存の道徳観を欠いた無軌道な若者による行動や犯罪が頻発し、彼らが起こした犯罪は「アプレゲール犯罪」と呼ばれた。

当時、他にも「アプレゲール犯罪」と呼ばれるものは、少なく無かったが、新聞の社会面を騒がし、筆者にも強い印象を与えたのが、この日大ギャング事件と言われるものである。

事件の概要は、昭和25年(1950年)9月22日、東京都千代田区小川町の日本大学の専用車が襲われ、職員の給料約190万円が強奪された。2日後、日大の運転手・山際啓之(当時19歳)とその愛人、藤本佐文(当時18歳)が逮捕される。山際は逮捕の際「オー、ミステイク!」と叫んだため「オー、ミステイク事件」と呼ばれたり、遊び型犯罪だとしてアプレゲール犯罪の一つとされている。

この山際という若者が米国二世の振りをしてみたり、その軽薄な服装や挙動が将に「アプレ」そのものの若者とされたし、また、愛人の藤本佐文が大学教授の娘だったことも(権威や旧来の良識に反するものとして)、大いに高齢者達の顰蹙を買ったものだった。

それこそ、昔からの老人たちの口癖とも言える「近頃の若いものは...」という批判にピッタリの事件であった。

この時代には、ちょっとでも常識のルールから外れたりした若者は、(たとえ、山際のような軽佻浮薄な行動を採らずに)それが、若者らしい意欲的で、斬新な行動であったとしても、「近頃のアプレの若者は」として切り捨てられてしまうことも少なく無かった。

「アプレ」、「戦後派」、当時の絶対権力者、米国人の、大仰な身振りをまねて、発する「オーミステーク!」のセリフこそ、敗戦直後の、些か暴走気味の新人類の若者像として、多くの年配者から「近頃の若いもの」の代表として標的にされたのも、また「宜(むべ)なるかな」といったところか。

次は、更に下った時代の、「近頃の若いもの」として社会に、ちょっとした小波を立てた事例について、述べてみよう。

それは、小説『太陽の季節』(作者:石原慎太郎)にまつわる話である。この短編小説は、ウィキペディアによれば、昭和30年(1955年)、文芸雑誌『文學界』7月号に掲載され、第1回(1955年度)文學界新人賞を受賞。翌年昭和31年(1956年)1月23日には、第34回(1955年下半期)芥川賞を受賞した作品である。

芥川賞の受賞に関しては、賛否両論が賑やかだったようだ。ウィキペディアが、編集した文學界新人賞・芥川賞の選評には、こうある。

<『太陽の季節』は受賞作にはなったものの、選考委員の評価は必ずしも高いとは言えず、反倫理的な内容についても評価が分かれた。作品にみなぎる若々しい情熱が評価され激賞される一方で、同時に賛成派からも、文章の稚拙さや誤字があるなど多くの欠点が指摘されている。>

選評の具体例を二、三挙げてみると、佐藤春夫は、「反倫理的なのは必ずも排撃はしないが、こういう風俗小説一般を文芸として最も低級なものと見ている上、この作者の鋭敏げな時代感覚もジャ(ー)*ナリストや興行者の域を出ず、決して文学者のものではないと思ったし、またこの作品から作者の美的節度の欠如を見て最も嫌悪を禁じ得なかった」とし、「これでもかこれでもかと厚かましく押しつけ説き立てる作者の態度を卑しいと思ったものである。そうして僕は芸術にあっては巧拙よりも作品の品格の高下を重大視している。僕にとって何の取柄もない『太陽の季節』を人々が当選させるという多数決に対して、僕にはそれに反対する多くの理由はあってもこれを阻止する権限も能力もない」とした上、更に、「(前略)...僕は選者でもこの当選には連帯責任は負わないよと念を押し宣言して置いた」と述べている。

また、英文学者、吉田健一は、「体格は立派だが頭は痴呆の青年の生態を胸くそが悪くなるほど克明に描写した作品」と酷評し、「ハード・ボイルド小説の下地がこの作品にはある」とした上で、「その方を伸ばして行けば、『オール讀物』新人杯位まで行くことは先づ請け合へると思ふ」と述べている。

更に、宇野浩二は、「読みつづけてゆくうちに、私の気もちは、しだいに、索然として来た、味気なくなって来た」とし、「仮に新奇な作品としても、しいて意地わるく云えば、一種の下らぬ通俗小説であり、又、作者が、あたかも時代に(あるいはジャ(-)*ナリズム)に迎合するように、(中略)〈拳闘〉を取り入れたり、ほしいままな〈性〉の遊戯を出来るだけ淫猥に露骨に、(中略)書きあらわしたり、しているからである」と批判している。

以上に掲げた選評はどちらかと言えば、否定的なものだが、それは筆者の見方が、矢張り、それらの意見の方に傾いているからだ、と己の立ち位置を、ここで明らかにして置こう。

*(注)丸括弧内の長音記号"-"は、引用原文には無かったものだが、筆者が補足した。

この作品の評価や解釈について、何人かの評論家の文章を編集したウィキペディアによれば、『太陽の季節』は発表当時、新しい風俗として話題作となり、賛否両論で文壇を賑わせたものの、文学的な観点からの本格的な論究はあまり多くはない、としており、この点について、奥野健男は文庫版の解説の中で「既成の文学者たちが、先入観を持ってこの作品を否定的に眺め、まともに取り上げようとしなかったため」と分析している。

山本健吉は、「スポーツ青年の無道徳な生態」を描いた『太陽の季節』について、「これはたいへん魅力に富んだ小説だが、現代小説の行動性は、このような思考停止の状態においてしか、現われないのであろうか。似たような青年を描いても、三島は彼の抱いている小説美学の必然として現われてくるが、この小説では、完全に風俗小説的な場に風化している。そしてそれを、深刻に意味づけようとする作者の試みが、宙に浮いている。」と評している。

更に、村松剛は、三島由紀夫の『沈める滝』のドライ青年の主人公・昇が、その3か月後発表の『太陽の季節』の主人公の先駆的存在となっているとし、三島の文体が石原に影響したことを指摘している。

筆者は、この作品の著者、石原慎太郎とは1歳しか違わない(石原慎太郎は昭和7年(1932年)生まれ)し、映画俳優となった、弟の裕次郎とも1歳しか違わない(昭和9年(1934年)生まれ)、つまりこの兄弟の丁度真ん中に位置したわけであるから、将に、自分も専ら当時のマスコミの社会面を騒がせる、「近頃の若いもの」の一人として老人達から胡散臭い目で見られるべき世代に属していたことになる。

しかし、何時の時代(この「太陽の季節時代」)でも同じように、「近頃の若いものは」と一把一絡げに括っても、そこには「微妙」から「可成り」までの違いもある。

つまり、何から何まで、丸っきりコピーして、自分だけで粋がっている「近頃の若いもの」もいれば、どちらかと言えば、「ふん!」とそれらを斜に構え、嘲笑っている「近頃の若いもの」だって当然いるわけだ。

筆者も「障子を突き破った男根」などは悪趣味な野郎だ!と思ったが、湘南海岸でヨットを乗り回すなどというのは、正直言って「かっこいいな!」と密かに憧れたものだ。

主人公達のように、金に不自由しない連中とは異なり、筆者がクルーザーヨットに初めて乗ることが出来たのは、就職して自分で稼ぐようになった時代のことであり、無論、自分がクルーザーのオーナーになったわけでは無く、会費を支払ってゲストとして、乗船したに過ぎない。自分が持てたのは、小さな手作りセーリングボートでしか無かった。

それでも、その後、海洋冒険家、堀江謙一が太平洋単独無寄港横断を果たし、それを映画化した石原裕次郎主演の「太平洋ひとりぼっち」(映画そのものは余り面白くなかったが...。)などには、それ以来、大きな興味と関心を持つに至ったし、大袈裟な言い方をすれば、その後の筆者の人生を左右したとも言える。

それは、筆者の人生の目的の一つが、「クルーザーで世界一周するか」あるいは「海辺に居を構え、仕事する」ということになって、前者は実現しなかったが、後者は曲がりなりにも実現することが出来た次第、ということになる。

私が話を進めたいのは、そんな風に、人生を辿ることになる「近頃の若いもの」たちは、言ってみれば、昔から当たり前の存在で、たとえ、年配者が顔を些か顰めながら「近頃の若いものは...」と口に出そうが、出すまいが、そう言われ、そんな顔をされている当人達は、実際には、そんな批判を殆ど気にする必要は無い、ということだ。

それこそ、一過性の熱病のようなもので、一旦罹って免疫となれば、他の人々にも、自分たちにも別に害を及ぼすわけでは無い。

それより、余程深刻で、無視するわけに行かないのは、嘗ては「近頃の若いものは」と言われた、或る意味では「時代の先端を駆け抜けたような」人物が、ゾンビのように墓場から甦り、「老醜」により社会を汚染して行くことだ。

この「老醜」がなまじの権力などと結び付くと、社会に対し、大いに害を及ぼしたりする。こういった「近頃の老いたもの」の方がよっぽど目に余る深刻な問題をもたらすことになる。

素晴らしく勘の良い読者で無くとも、筆者が何を取り上げようとしているか?は、大凡想像がつくであろう。

そう、今や東京都の過去の数々の不透明な問題が露出して来て、マスコミやミニコミを騒がせている、嘗ての「近頃の若いもの」の代表の一人であった、一応、文筆家でもあり、政治家でもあるらしい(?)、上掲の石原慎太郎のことである。

文筆家として、金にまみれた、過去の保守党政治家のボスを取り上げて、リバイバルさせよう、とするくらいなら、一般庶民に、格別の迷惑を、直接掛けるわけでは無いから、まだ可愛げがあり、そんな事柄は、単に無視すれば足りる。

しかし、都民の血税や高額の寄付金を不透明に費消したまま、明らかにしなかったり、一般社会や我が国に対してまで不利益をもたらすような行動は絶対に許される性質のものでは無いから、早急に納得の行く説明をすべきだし、当然、公人としてその責任を取らねばならない。

それらの問題の例を挙げれば、

1.うまく採算も取れないような新銀行の設立を、公の費用を利用して行った。
2.四男の画家を公私混同して、東京都のプロジェクトに関わらせた、と言われている。
3.例の築地市場移転問題に関し、どの程度関わり、盛り土プロジェクトについて、どのような役割を果たしたのか?
4.全国からかき集めた寄付金15億円はどうなった?
尖閣諸島を「買い取る」と言って、石原慎太郎が全国から集めた寄付金の約15億円はどうなった?その後、ウンともスンとも言わなくなった。(http://79516147.at.webry.info/201610/article_228.html)

筆者は、この第4項が、最も国益を害した、と考えて居る。寄付金の行方もさることながら、この石原都知事(当時)の挑発に簡単に乗せられた野田首相(当時)が、尖閣諸島を国で「買い取り」所有化したという、歴史に残る無神経かつ無思慮な愚行が、それまで維持されてきた日中政治家間の信頼関係を完全に破壊したものと考えて居る。*

*(注) 筆者が観た、過去のNHKのドキュメンタリーでは、『日中国交回復の訪中時、田中角栄首相が、「尖閣」を口に出そうとした際、周恩来総理は、それを遮り「その問題は今、話さない方がいい」と発言し、もっと充分な時間を掛け、双方が納得出来るような素地を作った上で、解決方法を探ろうとする賢明な提案をした経緯があった。』ことを無視し、ぶち壊すきっかけを作ったのは、将にこの軽薄で、愚かな二人の政治家(?)石原と、その手管に易々と乗せられた野田に他ならない。

こうして見て来れば、「近頃の若いものは...」、と年配者に渋面を作らせるくらいは、むしろ可愛いらしくらいのものだ。
社会や国家に対して、害毒を垂れ流す「近頃の老醜者」の方が余程質(たち)が悪い。

筆者も精々自戒するとしよう。

筆者:ぶらいおん(詩人、フリーライター)東京で生まれ育ち、青壮年を通じて暮らし、前期高齢者になってから、父方ルーツ、万葉集ゆかりの当地へ居を移し、地域社会で細(ささ)やかに活動しながら、105歳(2016年)で天寿を全うした母の老々介護を続けた。今は自身も、日々西方浄土を臨みつつ暮らす後期高齢者。https://twitter.com/buraijoh