ダンディ坂野が明かす一発屋の現在 「それほど悪い場所だとは思いません。僕の才能からしたら、ありがたいくらい」
「ゲッツ!」と黄色いスーツーー。このふたつの要素だけで思い浮かぶのは、お笑い芸人・ダンディ坂野。
最近は「あの人は今?」的に一発屋芸人としてイジられるくらいでめっきり露出も減ってしまったが、一世風靡したことは多くの人が覚えているはず。シブとく生き抜く、そんな彼の現在とは?
―お笑い芸人を目指したきっかけは?
ダンディ坂野(以下、ダンディ) もともとは田原俊彦さんのようなアイドルになりたかったんですよ。アイドルになるためには東京・原宿でスカウトされるか、芸能事務所のオーディションに受かるしかないと思ってました。だから、高校を卒業したら、まずは東京に出るお金を稼ぐために地元の石川県で働いていたんです。でも、やっとお金が貯まった時には、すでに26歳になっていました。
さすがにこの年齢でアイドルは難しいだろうと思って、目標をお笑い芸人に変えたんです。その理由はダウンタウンさんとかウッチャンナンチャンさんがTV番組でアイドルと親しげにしていたから。だから、お笑い芸人になれば、アイドルと仲良くなれるんじゃないかと思って、東京のお笑い養成所に入りました。
養成所に入ったら、20歳前後の若いコばかりなんですよ。彼らとコンビを組むんですが、やっぱり6、7歳も年齢が離れていると世代間ギャップがあってキツかった。それで、ピン芸人になったんです。1996年頃ですね。
その頃、ある若手のお笑いライブで「ピン芸人」のコーナーがあって、僕はアメリカンな感じで司会をしていました。司会だから衣装は黒のスーツに蝶ネクタイ。当時は『ボキャブラ天国』がブームになっていて、若い芸人たちは、みんなおしゃれな服を着て、コントをやるのが主流でしたから、そんなに若くない僕は、スーツに蝶ネクタイの古い漫談スタイルでもいいのかなと思っていたんです。
アメリカンなスタイルの司会をやろうと思った理由は昔、レンタルビデオ屋さんでバイトをしていた時にエディ・マーフィが大人気で、彼のスタンドアップコメディのビデオを見てたから。エディが何かを言った後にペロッと舌を出すとか、お客さんを両手で指さして笑うとか、そういう動きがウケていたんです。だから、それをマネしてみようと思いました。
それで名前もアメリカンっぽく、ダンディ坂野。ネタもアメリカのスタンドアップコメディをベースに日本の小噺(こばなし)やダジャレを交ぜていたんです。内容はわりと自虐的なものが多かったですね。例えば、「俺みたいなビッグな人間だと、みんなからよく挨拶(あいさつ)されるんだ。こないだ飛行機に乗った時もスチュワーデスさんから話しかけられたよ。ニーハオって」とか。
―ははは。それで「ゲッツ!」はいつ頃生まれたんですか?
ダンディ 最初の頃、舞台に上がる時に「ライドオン!」って走って出ていって、その後に「ゲット」って言ってたんですよ。でも、僕は滑舌が悪くて、先輩から「もっとはっきり『はいどうも』って言えよ。それに『ゲッツ』ってなんだよ」って言われました。だから、ライドオンはやめて、ゲッツって聞こえるならゲッツでもいいやと思ったんです。
その頃はネタの合間にゲッツはやってなくて、「オーケー、サンキュー、ソーマッチ」って言ってました。でも、あるライブでネタの終わりにゲッツをやったら、お客さんが「ああ、ネタが終わったんだな」って気づいて拍手してくれたんです。ゲッツを入れるとわかりやすいんだなということで、今の形になりました。
―それでブレイクしたのが2003年ですね。
ダンディ そうです。『爆笑オンエアバトル』なんかに少しずつ出させていただいていたんですけど、やっぱりドラッグストアの「マツモトキヨシ」さんのCMに出たのがきっかけですね。今は黄色のスーツばかり着ているんですけど、黄色がマツモトキヨシさんの企業カラーだということで、その時初めて着たんですよ。それで猫に向かって「ゲッツ!」をやるだけ。それからポイントカードを見せて、「ゲッツ!」をやって、はけるだけ。
それで「ゲッツ!をやって、はける人」というイメージが、どんどんひとり歩きしていきました。でも、その時にやっと世間の人たちに僕の存在を知ってもらうことができたと思っています。
―ブームの時はどれくらい忙しかったんですか?
ダンディ ハッキリとは覚えてないんですけど、朝の3時とか4時に起きて、夜中の1時過ぎくらいに家に帰ってくるという生活でしたね。その頃は「よし、売れたぞ」というより、今、自分が何をしているのかわからないし、「このままいったら俺、もたないぞ」という気持ちでした。年齢も36歳でしたし。
そんな期間が1年半くらいあって、次に波田陽区さんやレイザーラモンHGさんがブレイクし始めるんですけど、悔しいというより「おっ、次が出てきたぞ」っていう感じで客観的に見てましたね。
ブームが終わると、確かに一気にテレビの露出は減るんですけど、それは東京のキー局の話なんです。今の時代は地方局もありますし、CSもBSもある。それに地方のイベントもありますから、一発当たればなんとかやってはいけるんです。
一発屋と呼ばれるのが僕だけだった頃、バラエティ番組に呼ばれて、今すごくブームの芸人さんと比較されて「キミもそのうち、ダンディみたいになるよ」とか言われてましたけど、僕は「一発屋」がそれほど悪い場所だとは思いません。僕の才能からしたら、ありがたいくらいです。
だから、これからも「黄色いスーツを着た『ゲッツ!』を言うおじさん」で頑張りたいと思います。アイドルにはなれなかったけど、アイドルの方にはたまに会えるので、それで十分かなと…。
最後に、一発屋といわれる人たち(僕以外)は、時代に合うギャグやネタをちゃんと作り上げて、子供も大人もみんながマネして、たとえ一年でも世間を盛り上げた人たちです。ですから、ぜひ、今後も応援してあげてください。
(取材・文/村上隆保 撮影/本田雄士)