この自身3度目の欧州制覇で、パオロは欠場したバレージに代わり、キャプテンとしてビッグイヤーを掲げた。父は63年、ミラン初の同カップ制覇を果たした時にキャプテンとして最初に栄光のトロフィーを授与されており、親子二代での栄誉に、マルディーニ家のブランドは絶対のものとなった。
 その後、一時的な低迷期を経て、ミランは98-99シーズンにスクデットを獲得。この頃にはSBからCBにポジションを移していたパオロは、頼れるキャプテン、不動のカリスマ的存在として、全てのチームメイトに対して強い影響力を有していた。
 
 21世紀に入ってもミランの猛威は続き、2002-03シーズンにはユベントスとのPK戦にもつれ込む激闘を制してCLを制し、07年にも優勝。05年に悪夢の逆転負けを喫しリバプールに雪辱を果たしたこの勝利が、パオロにとって通算5度目、そして最後の欧州制覇となった。
 
 同年、日本でのクラブワールドカップで浦和レッズ、ボカを下し、自身3度目の世界一を達成。栄光に満ちたパオロのタイトル歴は、横浜の夜で締め括られた。
 
 このように、栄華を誇ったミランとともにあった彼のキャリアだが、もうひとつの歩みを忘れてはならない。イタリア代表としてのキャリアだ。
 
 A代表に招集される前には、U-21代表で12試合に出場したパオロ。この時の監督は父チェーザレであり、当時のことを「やりにくかった」と息子は振り返っている。偉大な二世はこの頃、「チェーザレの息子」という肩書に苦しんでいたのである。
 
 86年には当時のA代表監督だったベアルツォットがパオロに目を付け、86年メキシコW杯での招集も考えたというが、それは見送られ、88年3月31日、スプリトでのユーゴスラビア(当時)戦で代表初キャップは刻まれた。
 
 ここから4度のW杯、3度のEUROに出場したが、パオロはいずれの大会においても、あと一歩のところでタイトルを取り逃がした。
 
地元開催の90年W杯では、準決勝でディエゴ・マラドーナのアルゼンチンに野望を打ち砕かれ、94年は決勝でブラジルの前に力尽きた。親子二人三脚(父は監督で息子は主将)で臨んだ98年大会の準々決勝フランス戦を含め、これら3つの敗北が、いずれもPK戦による決着だったことが、余計にパオロを悔しがらせた。
 
 最後のチャンスだった02日韓大会では、決勝トーナメント1回戦で疑惑の判定に苦しめられた挙句、自身が韓国のアン・ジョンファンに競り負けて決勝ゴールを決められるという悔いの残るかたちで、パオロのW杯へのチャレンジは終了した。
 
 EUROでも「アッズーリ」を、そしてパオロを待っていたのは残酷な結末だった。準決勝でソ連(当時)に完敗を喫したものの、未来への希望を感じさせた88年大会はともかく、92年大会は予選敗退、そして96年はチェコを見くびって足元をすくわれたのが響き、グループステージでの帰国を余儀なくされた。
 
 そして最後の大会となった00年大会、好チームで臨んだイタリアは、難敵を次々に撃破してフランスとの決勝へ進出。後半に先制点も奪い、思い通りの展開でアディショナルタイムに突入するも、ここで同点ゴールを許し、力尽きた延長戦で決勝ゴールを奪われる……。
 
 まさに悪夢のようなかたちでタイトルを逃したアッズーリとパオロ。126試合出場(7得点)という新記録(後にファビオ・カンナバーロ、ジャンルイジ・ブッフォンが更新)を作った彼だが、ついに代表では栄光と無縁のまま、前述の02年の韓国戦を最後に、そのキャリアに幕を閉じた。
 
 一方、ミランでは、その後もチームの核としてプレーし続け、こちらでは前述の通り、数々のタイトルに恵まれた。そして08-09シーズン、40歳で愛する赤と黒のユニホームに別れを告げたのである。