絶対に仕込ませない『家族に乾杯』の奇跡
※以下は戸部田誠『笑福亭鶴瓶論』(新潮新書)の第26章、「『家族に乾杯』が体現する鶴瓶の思想」からの抜粋です。
■「出会いの天才」の真髄
2010年、鶴瓶はマクドナルドのCMに起用された。
マクドナルドの「M」と鶴瓶の「M」字ハゲが合致するのが起用の理由ではないかと言って、鶴瓶はその会見で笑わせた。
そのCMのコピーは「出会いの天才」。
まさに鶴瓶をよくあらわした言葉だ。
ちなみに、このCM撮影でも「出会いの天才」っぷりを発揮する。偶然、CMに美容師役として出演していたのが、かつて鶴瓶のアフロヘアーを切った美容師だったのだ。
盟友である立川志の輔は「鶴瓶師匠と話していると、『あれ、この師匠は世界中の人と繋がってるんじゃないかな? 地球の中心は、この人なんじゃないかな』」と錯覚するほどだと語っている。
それをもっともよく堪能できる番組が、2017年に放送20周年を迎えた『鶴瓶の家族に乾杯』(NHK総合)だ。
この番組こそ、鶴瓶の人や場所や時間へのスケベさを体現している番組だろう。鶴瓶がゲストと二人でとある場所を訪れ、そこで出会った人たちに家族の話を聞くというだけの番組。
今でこそ、何も決めない、何も作らない、文字通りの「ぶっつけ本番」の旅であるが、はじめからうまくはいかなかった。10年以上かけて鶴瓶の理想とする形にしたのだ。
■「作らない」ことへの徹底したこだわり
「なんや、それ! ちゃうやん!」
岐阜県谷汲村(たにぐみむら:現・揖斐川≪いびがわ≫町)を訪れた鶴瓶は愕然とした。出会う女性たちがみな、ばっちり化粧をしているのだ。テレビの撮影のために準備し、作られていたのだ。
それは1995年に放送された『家族に乾杯』の前身番組『さだ&鶴瓶のぶっつけ本番二人旅』でのことだった。さだまさしが以前、谷汲村の歌を作ったことがある縁で、そこを訪れるという企画だった。鶴瓶はタイトル通り「ぶっつけ本番」だと思っていた。だが、通常の旅番組がそうであるように、スタッフは事前にロケハンをし、面白くなりそうな人や場所を用意していた。当然のことである。ましてやNHK。きっちり作り込むことが正義なのだ。
だが、鶴瓶は絶対に作ったらいけないと考えていた。
鶴瓶は急遽、さだまさしと別れ、勝手にさだのコンサートをしようと動き出す。楽器を持っている人を探し、ギターを借りる。道行く人たちに手当たり次第に声をかけ、人手も集めた。コンサートにはライトが必要となれば、走っているトラックを追いかけ、積んでいた工事用のライトを借り、お手製のステージを作り上げた。もちろん、最初から村でコンサートするという企画ならば、もっとちゃんとしたステージが出来ただろう。しかし、村の人たちを巻き込んで手作りで、その場で作り上げることが鶴瓶には大事だったのだ。
村人みんなが時間と場所を共有し、“当事者”となった即席のコンサートは当然のように大いに盛り上がった。
それが『家族に乾杯』の原点だった。
筆者の僕は幸運にも一度、この番組のロケに密着する機会を得たことがある。そこで驚いたのは、鶴瓶の「作らない」ことへの徹底したこだわりだった。
■異常なほどスタッフが少ない理由
スタッフはロケハンには行くが、それは土地勘を掴むためだけ。事前に『家族に乾杯』のロケが来ることが絶対に漏れないように役場の担当者など必要最小限の人にしか伝えない。ロケに密着する僕たち取材班にも直前まで具体的な行き先は秘密だった。移動もいわゆるロケバスではなく、地元の大型タクシーを使う。だから、そのタクシー1台に乗れるだけの必要最小限のスタッフしか帯同しない。ゴールデンタイムの番組として異常なほどスタッフが少ないのだ。
「作ったらアカンのです。見る人には、わかる。“あざとい”と感動できない。面白いものは、後からできあがるんです。段取ったらダメなんですよ」
カメラの撮り方も特殊だ。常にカメラは鶴瓶の後ろを歩く。通常なら主役であるタレントの顔を撮るため、カメラは正面、つまりタレントの前に位置する。だが、この番組は違う。なぜなら主役は地元の人だからだ。そして、その自然な表情を捉えるため、相手が鶴瓶だと認識するまで、カメラはできるだけ離れ、引いているのだ。
今でも、鶴瓶はロケに出る前、「うまくいってくれ!」と祈るのだという。「いい人と出会えますように」と。
その祈りが通じるのか、番組ではほとんど毎回、奇跡のような出会いに遭遇する。
「自分の人生は奇跡のような出会いに恵まれているなと思うんですよ。それを導くのは、偶然という機会でね、あれは何も決めないからいいんです」
■「人間というのは、本当はみんな誰しも面白い」
けれど、そんな出会いを奇跡にするのは、祈りや偶然だけではない。鶴瓶の聞き手、取材者としての眼差しだ。
「何かあると思って聞くんではなく、“何もない”と思って聞くんです。人間って、みんな面白いんですよ。無理に面白くしようとしない。僕は、聞き方が上手なわけでもないんですよ。自分が楽しんでいるだけ。ただ、まずは人を好きにならないといけないですよね。嫌いになったりしたら、自分が煩わしいだけやないですか。面白さも、人を受け入れるところから生まれるんです」
実際にロケを見ていて感じたのは、鶴瓶の面白い人を察知する能力の高さと根気強さだ。ひとたび面白そうな人だと感じたら、正直言って何を言っているか要領を得ない人に対しても鶴瓶は丁寧に話を聞いていく。
「いかに待つかですよ。その人の人間性が全体で分かるぐらいに待つかですよね。こっちが『こういうこと言うてはんねんな』ってテレビ見てる人に説明する必要はないんです。テレビ見てる人と俺が同時にその人を理解するぐらいの気持ちでいないと」
その根底には、鶴瓶が信じる哲学がある。
「人間というのは、本当はみんな誰しも面白い」
そして、「実際に起きたこと、今起きたことが一番面白い」。
有名でない人、何かを成し遂げたわけではない人。町にいる市井の人々にどうスポットをあてていくのか。そこに隠された面白みを見つけ、広げていくことに関して、鶴瓶の右に出る者はそうそういない。そしてその面白さを引き出す「今」をそのまま視聴者と共有するのだ。もちろん作っていないからこそ、変な“間”が生まれることも少なくない。隙間なく作り込むことが主流な昨今の番組とは一線を画している。
「変な間って、その人との距離感での間だから、すごく大事なんですよ。黙ってる時の間とかね。だから、そこはすごく大事にします。それが、作らない面白さですよね」
現在放送中の『きらきらアフロ』、『チマタの噺』(ともにテレビ東京)、『A‐Studio』や現在は不定期にライブを行い特番として放送している『鶴瓶のスジナシ』(TBS)など、鶴瓶が企画段階から携わった番組はそうした「作らない面白さ」を様々な角度から追求したものだ。過去の名作も同様のスタイルのものが多い。それらも今のテレビの主流とは違う。テレビは「いい影響を与えるためにある」という信念を絶対に曲げたくはないのだ。
■泥臭い道こそが、奇跡を呼ぶ近道
「テレビに育ててもらった人間やけど、テレビにつぶされたくない」
鶴瓶の周りには驚くほど面白いことが起きると言われる。だが、本当はそうではない。面白いことは常に誰の周りでも本当は起こっているのだ。目線を変えればいいだけなのだ。
「人を好きになってね。本気で人を観ていくと、世の中、ウソみたいなオモロイことがいっぱい、いっぱい起きてますから」
「もしこの仕事辞めても、余生は伊能忠敬みたいに全国を行脚して、その土地土地のめっちゃうまいもんを食べさせてもらいながら生きていけるわ。それもタダで」
そう、いたずらっぽく笑う鶴瓶のもとには、全国各地から地元の特産物などが贈られてくる。『家族に乾杯』などで出会った人たちからだ。それにいちいちお礼の電話をする。すると、その人たちも嬉しくなってまた贈る。そんな付き合いがいくつも続いている。
『家族に乾杯』ではロケに加えてスタジオ収録がある。一見、ロケだけでも成立しそうだが、この部分こそ、この番組の特異性であり、欠かせないものだ。前述のように通常この手の番組では事前にロケハンをし、スタッフが取材した上で準備をする。だが、この番組では全く逆だ。ロケをした後、スタッフがそのままその地に残り、ロケで訪れた住民たちに取材をし、ロケでは語りきれなかった部分を聞いていく。だから、スタジオ収録が不可欠なのだ。スタジオで後日談や鶴瓶とゲストが聞き出せなかったことをフォローすることで、その地域の住民の魅力をより深く伝えることができる。
それはまさに鶴瓶の出会った人に対する縁のつなぎ方そのものだ。
「運がいいといろんな人と出会える。その人との関わりを大切にすれば縁ができ、その縁を大切にすることでツキまで回ってくる」
つまり、「縁は努力」なのだ。
では、「運」とはなにか。鶴瓶流に言えばそれは「ぼたもちが落ちる位置にいること」だ。
様々な場所に出向き、時間をかけ、人と接すること。単純に機会を増やす。その遠回りに見える泥臭い道こそが、運を引き寄せ、縁をつなげ、奇跡を呼ぶ近道なのだ。
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1978年生まれ。ライター。ペンネームは「てれびのスキマ」。「週刊文春」「水道橋博士のメルマ旬報」などで連載中。著書に『タモリ学』『コントに捧げた内村光良の怒り』『1989年のテレビっ子』『人生でムダなことばかり、みんなテレビに教わった』など。
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(ライター 戸部田 誠)