「編集長、産むことのメリットとデメリットを教えてください」今年で33歳になるワーカホリックなプロデューサーに、ワーママ編集長(私)が詰め寄られたことからスタートした本企画。今回は「産むと、親との関係はどう変わるのか?」という問題について考えてみます。

「親がしんどい」と感じている自分が親になると、その「しんどさ」はどうなるのか? 変わるのか? 変わらないのか? そのあたりを、このさい本物の親不孝者になる覚悟で正直に書いていきたいと思います。

海野P(左)と私(右)

みんな、親がしんどいんです

親がしんどい。

これは、もうアラサーのためのメディア「ウートピ」をやっていると、避けては通れないテーマです。「親がしんどいから帰省がイヤ」「親がしんどいから彼氏がいることは隠している」「親がしんどいから子供を産みたくない」……と「しんどい親」に関する声はたくさん寄せられます。そして、そうした記事を掲載すると、毎回確実にGA(Google Analytics)の数字が爆発して、びっくりするくらい読まれます。

みんな、親がしんどいんです。

何を隠そう、私だって、しんどいです。

存在が近すぎて、影響が大きすぎて、もはや何がしんどいのかさえよくわかりませんが、とにかくしんどい。考えるだけで、しんどい。電話で話すだけでも、しんどい。帰るたびに、不眠と便秘と発熱をもよおすほど、全身全霊でしんどい。

別に仲が悪いわけじゃないんです。よくいう「毒親」でもないし、それほど厳しく育てられたわけでもない。不妊治療の末の第一子でしたから、それなりに期待はあったでしょうが、「子供に親の期待を押し付けてはならない」という抑制はある程度きいていたと思います。母親は内心私に「弁護士になって欲しい」と考えていたようですが、それを直接言葉で求められた記憶もありません。

一体いつからしんどいのか、思春期からずっとしんどいのか、大学入学とほぼ同時に18歳で実家を出てからしんどくなったのか、それさえ判然としませんが、とにかく両親と離れて16年目の今も、やっぱりしんどいです。

自分は帰らないという「帰省スタイル」

依然としてしんどさは残るものの、2年前に娘が生まれてからは、その、ぬるくしんどい関係が、少しラクになりました。

というのも、娘が私の代わりを務めてくれるようになったからです。

わが家では、私の実家に夫と娘のふたりだけで帰省します。私は仕事を理由に東京に残ります。この話を人にすると、「ヘンなの」と言われますが、それが一番ストレスが少ないのです。ひとりきりになった私は家族と連絡を絶って、朝から晩まで仕事に没頭します。「実家に帰らない」という罪悪感を振りきって、大好きな仕事を心ゆくまでやります。

娘が生まれて以降、そういう帰省スタイルがすっかり定着しました。私は1年に1回も帰りません。盆も正月も帰りません。

母のクッション代わりになる娘

こうして母のストレス回避に協力してくれている娘には、本当に頭が下がります。

1歳になる前から2泊3日か、長い時だと1週間弱、父親とふたりきりで祖父母の相手をしてくれている。私の「盆も正月も帰省しないなんて、親不孝……」という罪悪感を帳消しにしてくれている。しかも、朝から晩まで全力で祖父母をエンターテインしてきてくれる。

普段はおふろに入れようとすると阿鼻叫喚の完全拒否なのに、実家では「おばあちゃん、おふろ入ろっ♡」とみずから誘い、初孫との接しかたがわからず退職後は日がなテレビとスマホを見てばかりいるおじいちゃんには「おじいちゃん、大好き♡」と声をかけてあげる。

そうしてすっかり虜にしておいて、自分の不在中も祖父母に、孫のために「粘土で手型をつくる」「おもちゃを買う」「絵本を選ぶ」という数々のエンターテインメントを提供している。しかも、時々「おばあちゃんとおじいちゃんに電話する♡」といって、ビデオ通話でこまめにご機嫌うかがいすることも怠らない。

その仏のようなエンターテイナーぶりには、もはや尊敬の念しか湧いてきません。あなたは生まれてきたばかりなのに、なぜ、そんなに人間ができているの……? 今年で34歳になるこの愚母(註:もちろん、私のことです)が、実家を出てからの16年間、やらねばやらねばと思いながらグズグズやれずにきたことを、なぜ、これほどまでに自然にやってのけられるの? あなたはまったく大したお方ですね。生まれてきてくれて、本当にありがとう。愚母はあなたの存在にたいそう救われています。

そう、私は、娘を完全に自分と両親のクッションとして利用しているんです。

「孫の顔を見せてやりたい」という願望

40歳を過ぎて、産まない人生を歩もうと決めた女性から、時々こんな言葉を聞きます。

「(私はこれでいいんだけど)親には孫の顔を見せてあげられなくて、ごめんね、と思っちゃうことはあるよ」

産まない人生を選んだことに何の悔いもないけれど、ただ一つだけ、自分の親のことを思うと、心の奥がチクリとする。

「孫の顔を見せてやりたい」

この願望というか、どこか強迫的とも言える欲念は、どこからきたものかわかりませんが、遺伝子にプリセットされているのかと思うほど、女性の中に深く埋め込まれているような気がします。

本当は見せてやる義理なんかないのに、心のどこかで「見せなきゃいけない」と感じている。そして、見せてやれたら、まさに帰省中の留守番をしている私のように、心底ホッとする。何かの穴を埋められたような気になる。借りを返したような気持ちになる。

でもさ、何か、借りがあったっけ?

この、自分でも不可解な安堵はどこから来るの?

「アンタたちが勝手に産んだんでしょ」

子供の頃、学校や家庭で「親に感謝しなさい」的なこと、よく言われましたよね?

たぶん、儒教文化圏で育った子供ならみんな言われているであろう、この言葉。

だけど、あれ、ヘンじゃない?

感謝することなんか、正直、何もないよ。

産んでみて、親であることの大変さは、そりゃあ、もう、よーくわかりました。現在娘が2歳ですから、成人するまでがゴールとしたら、その10分の1の地点にいるわけですが、ここまでさえ、すでにかなり大変でした。残りの10分の9も、想像を軽く超えて大変であることは覚悟しています。

これを、安価で便利なシッターも、横になりながらスマホでポチるだけで何でも届く通販も、美味しいレトルト離乳食もない時代に、手伝ってくれる親もなく、知り合いもほとんどいない郊外の新興住宅地で、長時間労働が当たり前のサラリーマン夫を抱えながら、たったひとりで、2歳違いのふたりの女の子を育てた母は、本当に大変だったろうと思います(追記:父も父なりにがんばったはずです)。よくやったなあ、すごいなあ、とても自分にはできないなあ、と思います。

が、しかし、それが自分の親に対する“感謝”につながるかといえば、それはありません。むしろ、子供を産んで育てるという行為は、徹底的に親である人間の超利己的な欲求に過ぎないということが、よくわかりました。

反抗期の子供がよく親にむかって、

「アンタたちが勝手に産んだんでしょ。なんで、こっちが感謝しなきゃいけないのよ」

みたいなこと言いますが、あれ、かなり正しいじゃん、と。

2017年の日本において、「子供を持つこと」は、ほぼ完全に超個人的な欲求です。「バッグが欲しい」「ハイスペ夫が欲しい」「家が欲しい」……と並列な欲求に過ぎません。少子化の中でますます強くなる「産め」という圧力に屈して産んだとしても、それは「年収1000万円の男性と結婚するのが勝ち組」という空気に流されて、高収入のパートナーを選んだことと微塵の違いもないと思います。

ですから、超個人的な欲求を満たした結果、いろいろと大変なことがあっても、それは自業自得です。「家を持ったらローンが大変」と「子供を持ったら育児が大変」は同質でしょ、と。こんなに大変なんだから、感謝しなさいよ、というのは、おかしいでしょ、と。

自分が親になってみると、口が裂けても娘に「親に感謝しなさい」なんて、言えません。むしろ、先に書いたように、娘にはこちらが感謝することばかりです。

「しんどい」と表現する他ない呪縛

「親に孫の顔を見せてやりたい」しかり、「親に感謝しなきゃいけない」しかり……私たちは「親」にまつわるいろいろな呪縛に取り囲まれています。

私たちが物心つく前から、ひとりの人間として形成される過程において、あの手この手で植え付けられ、今や、解きほぐしようのない複雑なアマルガム(混合物)となっているそれらのもの。あまりに自分の深いところに根づいているために、「しんどい」と表現する他ない呪縛の数々。

娘を産んだことで、一時的に軽くなっているこうした呪縛が、この先どんなふうになっていくのか。娘はいつまでもクッションの役割を果たしてくれるわけではありませんから、またきっと、直面することになるんだろうな、と予感しています。

(ウートピ編集長・鈴木円香)