学校に行きたかった。学校に行きたくなかった。学校に行けなかった。不登校だった作者が描く『学校に行かなくなった日』は、自律神経失調症と不登校がどのようなものだったかを表現した作品。

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数年前、あるWEBマンガに夢中になった。
薬の種類や病状の話題も豊富で、うつ病患者とその周囲の人の悩みの本質に突っ込んでいるマンガだった。
うつというデリケートな問題を大胆に描く。人生経験がなければ難しいだろう。
プロフィールページを見て、驚いた。
中学2年生。
まじか。うそだろ。
その作品の名前は『メンヘラちゃん』。今では単行本化されている。
 
当時中学生、今は大学生になった作者、琴葉とこが描いた自分の学生時代の記録が『学校に行かなくなった日』。
小学校から中学校の不登校生活の記録だ。

「学校に行きたい、でも行けない。学校に行きたい、けど行きたくない。どうすればいいのかわからない」
「もちろんそれは私自身にとっての答えであって、万人共通のものではありません。こういったパターンもある。そんな気軽な気持ちで読んでいただけたらこれ幸いです」

親しくなった友人の様子など、好意を抱いている相手の表現は比較的丁寧でやさしい。会話一つ一つがいきいきしている。
一方苦手意識を抱く相手は、デフォルメされて不気味になっている。

最も特徴的なのは、父親だ。
飼っていたハムスターが死にそうになっていた時、父親は目も合わせず「お前がちゃんと世話をしないからだ」と言った。
きれいに折った折り紙をお父さんに見せたら、「部屋を散らかすのはやめなさい」と言われた。
父の気持ちがわからない。
次第に心がこじれて「このままだと殺されるから、殺したい」と、父親に怯えるようになってしまう。

その時の感覚が、父親が大きく口を開けて笑うシーンで表現される。感情が読み取れず、読んでいて神経が逆なでされる。
他のシーンでも父親が出るたびに、作者の感覚とシンクロして、傷つくんじゃないかとこちらがゾッとさせられてしまう。

このマンガは症例説明ではなく、作者が心の病気の中で見てきた感覚そのものを、追体験させているのだ。
たとえば「殺したい」という感情は、普通は本気にはなれない。
小6年時に父を「殺したい」となっていた時の心境を、圧迫感あるコマや絵柄で表現。どのくらい作者が心理的に追い詰められていたのか、わかってしまう。
また、不登校中の「どうすればいいかわからない」状態の理解は難しい。
この本では、作者の対人関係へのプレッシャーそのものを絵で表現しているので、甘え方がわからなくなって行き詰まった状態が、わかる。
読んでいて苦しくなる。ハッ、となって本から目を離した時に、ああこういう状態が自律神経失調症なんだ……と理解できるのだ。

一方、絵を描くようになって気持ちの整理をするシーンでは、心が解放される感覚が表現されている。
「あのねお母さん、今日、初めてふつうに話せたんだ」
「……そうね、とこ、とても楽しそうだったわ」
「楽しかったよ」
「そうね、楽しかったのね」
ハムスターにデフォルメされた作者と母親。目は作者の苗字「琴葉」になっているので表情が読み取れない。
けれどもこの会話から、不思議と「ふつうに話せる」ことのすごさを感じさせられるのは、話した相手や、楽しかった場所をキラキラと描いているからだ。

モノローグは「でした」で締められることが多い。まるで、折り合いをつけて一つ乗り越え、振り返るかのような語り口だ。
「つらかったことは無駄じゃない」っていう言葉を、今までぼくはあんまり信じていなかった。
だけど、振り返った時に「でした」と言えるようになるのなら、ちょっとは信じてもいいかもしれない。

『学校に行かなくなった日』
『メンヘラちゃん』

(たまごまご)