プロ初登板、ノーアウト満塁のピンチで清原を迎えた

 1月17日。野球殿堂博物館で、野球殿堂が発表され、野茂英雄氏が史上最年少となる45歳と4か月で選出された。会見では「自分の試合を見て、みなさんに楽しんでいただき、それが評価されたのならうれしい」と喜びを語った。

 トルネード投法、日米を沸かせた落差のあるフォークボール……。当時、それまで見たことがなかったそのフォームやボールに、ファンは驚き、興奮した。日米通算201勝を挙げ、野球界を大いに盛り上げたのだから、候補入り即殿堂入りという快挙も不思議ではないだろう。

 野茂が残したものは数多い。メジャーリーガーとして戦う日本人選手は、村上雅則氏や野茂ら、まだ日本人がいないころに米国に渡った戦士たちに敬意を表している。一方で日本球界に残したものも大きい。その一つは「直球」だ。

 フォークがあっても、勝負所でトルネードから繰り出したのは直球だった。野茂が初めて奪った三振は1990年4月10日。藤井寺球場で行われた近鉄−西武戦。ライオンズの4番・清原和博からだった。

 初回。2つの四球と失策で無死満塁のピンチを招き、4番を迎えた。スーパースターを前に、冷静な野茂のハートに火が付いたのか。コントロールが定まらなかった野茂は、清原に対して、ストレートでストライクをどんどん奪っていく。追い込んで、最後は直球で空振り三振。その力で押し込んだシーンが、「ドクターK」のプロローグとなった。

 このときから、野茂VS清原の名勝負は始まった。野茂は直球で押し、清原はそれを打ち返そうとする。それが彼らのプライドだった。清原は野茂のストレートに打ち取られては賛辞を送り、リベンジに燃えた。その対峙はファンの心を奪っていった。

 その後、野茂の去った日本球界で清原は野茂の幻影を追い求めていたのかもしれない。巨人に移籍後、変化球で空振り三振を奪いにきた阪神の藤川球児が逃げ腰に映り、挑発する言葉を吐いたのは有名な話。藤川だけなく、かわしてくる投手に三振を取られると悔しいという感情以外の何かが、その表情に浮かび上がった。野茂だったら、ストレートで勝負していたかもしれない。そんな場面が何度となくあった。

 投手と打者の力と力のぶつかり合いが、1990年代には多くあった。とりわけ、野茂と清原の対戦は見応えがあった。フォークでも、トルネードでもない。野茂が残したストレートは、日本球界で殿堂入りするにふさわしい代物だった。