視聴率はどうだった?」

 1993年10月28日、カタールの首都ドーハで行なわれたワールドカップ最終予選・日本対イラクの翌日、帰路のチャーター機での出来事だ。カーテンで仕切られた選手側のスペースから出てきた三浦知良は、マスコミ用の席に座っていた久保田光彦の姿を見つけるや、話しかけてきた。久保田はテレビ東京開局史上、最高の視聴率を稼いだことを伝えた。

「48.1%も取ったよ」

 それからいくつか言葉を交わした記憶は残っているが、具体的に何をしゃべったのか、久保田はハッキリと覚えていない。ただ、機内には重苦しいとまではいかないまでも、どんよりとした空気が漂っていたので、久保田は周囲の状況をおもんばかったと推測される三浦の行動に感心した。

 当時、テレビ東京のアナウンサーとして活躍していた久保田は、日本対イラクの実況を務めた。最終予選は日本、サウジアラビア、韓国、イラン、イラク、北朝鮮の6ヵ国の間で争われ、日本での放送は電通が仕切り、テレビ東京には第5戦のイラク戦が割り当てられた。

 日本が途中で本戦出場争いから脱落したら、消化ゲームになるリスクがあったものの、テレビ東京は放送に踏み切った。日本で初めて海外のサッカーを紹介した番組『三菱ダイヤモンド・サッカー』(1968年〜1988年、1993年〜1996年)をスタートさせるなど、「サッカーのパイオニア」としての意地とプライドがあったからだ。ドーハでプロデューサーを務めた藤井潤一は証言する。

「サッカーをこれだけやってきた局だったし、ここで引くのは......という思いはありましたね。スポーツの現場の人間だけではなく、皆さん(局全体)がそういう気持ちだった」

 その日、釜本邦茂(元日本代表フォワード)らをゲストに東京のスタジオを仕切りながら、番組全体に目を光らせていた統括プロデューサーの寺尾皖次(かんじ)は、懐かしそうに20年前の世紀の一戦を振り返った。「イラク戦の前に日本が代表権を獲得し、逆の意味での消化試合だったらいいと思ったんですけどね」。

 もっとも、最終予選が進むにつれ、日本の雲行きは怪しくなるばかり。初戦のサウジアラビア戦は0−0。続くイラン戦は1−2で敗れ、2戦を消化した時点で、日本は早くも崖っぷちへと追い込まれてしまった。イランに敗れた翌日、寺尾はタブロイド版の夕刊紙が「絶望の一敗」という大見出しをつけたことを鮮明に記憶している。

 寺尾から見ても、その見出しはリアリティを帯びていた。第3戦で戦う北朝鮮に対し、日本はそれまで負け越していたのだから無理もない。第2戦が終わった時点で、藤井や久保田は現地に飛んだ。途中、トランジットで立ち寄ったイギリスのヒースロー空港で、取材クルーのひとりが東京のスポーツ局に電話を入れた。飛行機での移動中に、ちょうど北朝鮮戦が行なわれていたからだ。

「負けていたら、俺たちどうするの?」
「このまま日本にUターンするしかないんじゃない?」

 藤井や久保田が冗談まじりにそんなやりとりをしていると、電話を終え、小走りに駆け寄ってきたスタッフは朗報を口にした。

「3−0で日本が勝ちました」
「やったぁ!」

 テレビ東京の制作チームは声を揃え、色めき立った。

「ひょっとしたら......」

 藤井には、そんな思いが頭をもたげた。

「というのも、そのあとには強いチーム同士の対戦が残っていたので、これからは潰し合いになるだろうと思ったからです」

 それでも、想いは十人十色。久保田は続く韓国戦でも勝ってほしいと願いつつ、それでも無理かなという思いは捨て切れなかった。「それまで日本は韓国に(北朝鮮以上に)分が悪かったので、やっぱりイラク戦は消化試合になるかなぁと考えていたんですよ」。

 そして、迎えた韓国戦。三浦知良がゴールを決めると、スタジアムで観戦していた久保田は思わず隣人と抱き合って喜んだ。結局、日本はその1点で韓国を下し、最終戦のイラク戦に望みをつないだ。

 絶望から奇跡へ――。各局で放送された中継は尻上がりに視聴率を上げていく。1年前(1992年)、日本代表としては初の国際大会優勝となった中国でのダイナスティカップ。その2ヵ月後、アジアの頂きを制した広島でのアジアカップ。そして1993年のJリーグ開幕と続いたムーブメントは、この最終予選でひとつのゴールを迎えようとしていた。藤井は、今までに感じたことのないような熱を感じた。

「第1戦のサウジ戦から視聴率が高かったかといえば、そうでもない。日本が初めてワールドカップに出場できるかもしれないということで、初めてサッカーが『国民的関心事』になったんですよ」

 フジテレビで中継された韓国戦は、38パーセントという高視聴率を記録した。試合が終わると、同局のプロデューサーから藤井は、「次もしっかりやってくれ」と握手された。まるで、まだ日本だけが知らないスポーツの熱を伝えるという使命を、バトンで渡されたかのように。

「ああいう現場だと、(他局は)ライバルというわけではない。戦友みたいな感じですね。もう、ここまで来たら絶対勝ちをモノにしなければならないよねって雰囲気でした。理屈を抜きにして相通じるものがあった」

 10月28日、ドーハ・アルアハリスタジアム。日本とは6時間の時差があり、キックオフは現地午後4時15分に予定されていた。強い西陽が射していた。歴史に残る実況を担当した久保田だが、この一戦の記憶はほとんど残っていない。「何か緊張していたのかな。ハッキリどうしたということは覚えていない」。

 強いて残っているといえば、勝負の分かれ目となったロスタイムだけだ。

「決まった!」

 イラクのFWオムラムのヘディングによって放たれたボールが日本ゴールを揺らすと、久保田はそう言ったまま押し黙ってしまった。

「ゴールを決められた瞬間、頭が真っ白になった。残り時間も少ないし、このコーナーキックをしのげば終わりだろう。笛が鳴った瞬間、どういうコメントがいいのか考えていた。その矢先に同点にされてしまった。同点になったらダメになる(W杯本大会に出場できなくなる)ことも分かっていたので、その瞬間、それまで考えていたことがポーンと飛んでしまったんですよ。そのせいで言葉が出なかったような気がします」

 その沈黙は、30秒近くもあったと言われている。現場の衛星波を受けていた東京のスタジオでは放送事故だと思った制作スタッフもいたので、舞台裏はてんやわんやだった。

「いったいどうなっているんだ?」

 日本とカタールのスタッフが国際電話でやりとりし始めたころ、久保田のかたわらで解説を務めていた前田秀樹(元日本代表ミッドフィルダー)がボソッとつぶやいた。

「今のはですよ、一瞬のスキでしたね」

 その15秒後、久保田と前田はまるでタイミングを計ったかのように、同じ言葉を口にした。

「いやぁ」

 そのまま久保田は、言葉を続けた。

「前田さん、しょうがないですけどね」

 帰国後、久保田はこの試合映像を一度も見返していない。自宅にVHSビデオは残っているが、一度も再生したことはないという。「見る気にならない。だから、どういうふうに放送が進んでいるのか僕は知らない」。

 その空白の瞬間を抜粋する形で、初めて久保田が目にしたのは、昨年、テレビ東京で放送中の『FOOT×BRAIN』のアナウンサー特集にゲストとして招かれた時だった。「正直、言われているほどではないと思いました。もっと声に悲壮感やガッカリ感が出ていると思ったけど、全然そんなことはなかった」。

 それでも、しょうがないですけどね、と口にしたことには、自ら疑問を投げかける。

「あまりにも早く気持ちが切り替わるのはおかしいかなと。ちょっと深い話になるけど、ああいう時にこそ、人間性とか性格が出るんじゃないですかね。そういったものが出てくるから、テレビは怖いと思いました。もうちょっとほかに何か別の言い方はなかったのか。自分としてはなんかイヤでしたね」

 数ヵ月後、久保田はある会合で同業者から、「ああいう状況になったら、僕もおそらく同じように黙ったよ」と同情された。相手は年上だったため、久保田はそうですかと相槌を打つだけにとどめたが、内心は違っていた。「計算とか、そういうんじゃないんだよ」。

 後日、あの時の自分を改めて冷静に分析してみると、何もない素の状態に陥っていたことが分かった。

「要はね、シラけてしまったんですよ。『泣いていたんじゃないか』『感極まってしまったのでは』と言ってくれる人もいたけど、それは正反対。むしろ、ふざけるなという感情の方が強かったんですよ」

 現在はサッカーやテニスを中心にフリーアナウンサーとして活躍する久保田にとって、日本対イラクは個人的に記憶に残る一戦ではない。それでも、印象に残る一戦であることは確かだ。

「変な話かもしれないけど、僕の実況人生のひとつのターニングポイントですね。評価云々ではなく、歴史的な瞬間をしゃべったという意味でね」

 あれから20年――。「ドーハの悲劇」が生み出した48.1パーセント(瞬間最高視聴率は58.4パーセント!)という視聴率は、テレビ東京でいまだ破られていない。

布施鋼治●文 text by Fuse Koji