/忠君のために家族さえも犠牲にする。聞こえはいいが、結局は、自分一人の保身と体面のために、かってに自分の家族をも利用しているだけ。孔子の教えでは、法に背き、世を敵するとも、生きて家族を守れ、であって、滅私奉公ではない。/

 901年、文章博士から右大臣右大将にまで昇り詰めた菅原道真は、貴族たちの反発を買い、冤罪を被り、太宰府に流された。だが、これに先立ち、道真は、不義密通の罪で破門し、いまはしがない寺子屋の教師に落ちぶれている武部源蔵に、秘伝の筆法の巻物を授け、息子をかくまってもらった。しかし、追っ手は、この寺子屋にも迫る。源蔵は、悩んだあげく、道真の子を守るため、罪もない別の子、つい今朝、入門してきたばかりの品の良い子の首を斬り落とし、道真の子と偽って追っ手に差し出した。ところが、追っ手の中には、道真の恩で位を得ながら、今はやむなく貴族側に仕えている松王丸がいた。やつは、道真の子の顔を知っている。にもかかわらず、松王丸は、そのニセモノの子が道真の子に相違ないと言う。しかし、その子こそ、じつは道真の子の身代わりにするために、松王丸自身が寺子屋に送り込んだ彼の実の息子。みなが引き上げた後、松王丸らは、かつて我が子に教えたいろは歌で、不憫なその霊を弔う。

 『菅原伝授手習鑑』。「せまじきものは宮仕え」の出典だ。義理と人情の板挟み。忠君のためには我が子の命さえも差し出す。むろん、この話は江戸時代に作られたフィクションで、平安時代にはまだ寺子屋などない。とはいえ、それまで自営だった貴族たちの自立の途を絶ち、絶対天皇制の官僚機構の下に組み込んだのは、ほかならぬ菅原道真。だからこそ、彼は貴族たちに激しく憎まれたのだ。


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