徳をもって動かずして動かす/純丘曜彰 教授博士
/親政というと聞こえがいいが、なんでも自分で決めようとすれば、右へ左へぐらつき、周囲もふりまわされてばかりで、愛想をつかす。むしろ全体の中庸を見極め、そこに静かに立ってこそ、人々が基準として寄り集まる中心人物となる。/
そのころ、政治は、天皇ではなく、「将軍」として治安平定を命じられた鎌倉幕府の源家でもなく、その源家の家政の北条家が「執権」として世襲し、その北条家の執事である長崎家が「内管領」として実権を握る、という、下請による異様な政権支配に陥り、それも、先の元寇の防衛に恩賞が出せず、がたがたになっていた。おりしも、才気溢れる後醍醐天皇が、兄天皇の皇太子の成人までの中継ぎとして臨時に即位。この機に乗じて、不平武士たちを煽り、1333年、政権の「奪還」と「親政」を企てた。
しかし、後醍醐天皇の「建武の新政」は、鎌倉幕府の旧制度を廃止停止するばかりで、新制度は朝令暮改。そのうえ、新宮造営に課税強化。なにしろ、なんでもかんでも自分自身で決めないと気が済まないから、なかなか話が進まず、依怙贔屓だらけ。それで、武士はもちろん、貴族にも愛想を尽かされる。そして、足利尊氏は、後醍醐天皇を見限って、別帝を擁立し、自分で源家の幕府を「再興」してしまう。
後に、北畠親房や水戸藩が南朝を「正統」としたが、三種の神器の真贋に依る話で、真相はよくわからぬ。なんにしても、後醍醐天皇という人物は、やり手の政治家ではあったが、致命的に人望人徳に欠ける。楠木正成は「非理法権天」を旗印に掲げ、非道より道理、道理より法度、法度より権門、権門より天子、と唱えて後醍醐天皇に従うように呼びかけたと、幕末の尊皇派は言うが、それこそ漢語としてムリがある。元来の意味は、でたらめより屁理屈、屁理屈より法制度、法制度より司法判断、司法判断より天道、だろう。
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そのころ、政治は、天皇ではなく、「将軍」として治安平定を命じられた鎌倉幕府の源家でもなく、その源家の家政の北条家が「執権」として世襲し、その北条家の執事である長崎家が「内管領」として実権を握る、という、下請による異様な政権支配に陥り、それも、先の元寇の防衛に恩賞が出せず、がたがたになっていた。おりしも、才気溢れる後醍醐天皇が、兄天皇の皇太子の成人までの中継ぎとして臨時に即位。この機に乗じて、不平武士たちを煽り、1333年、政権の「奪還」と「親政」を企てた。
後に、北畠親房や水戸藩が南朝を「正統」としたが、三種の神器の真贋に依る話で、真相はよくわからぬ。なんにしても、後醍醐天皇という人物は、やり手の政治家ではあったが、致命的に人望人徳に欠ける。楠木正成は「非理法権天」を旗印に掲げ、非道より道理、道理より法度、法度より権門、権門より天子、と唱えて後醍醐天皇に従うように呼びかけたと、幕末の尊皇派は言うが、それこそ漢語としてムリがある。元来の意味は、でたらめより屁理屈、屁理屈より法制度、法制度より司法判断、司法判断より天道、だろう。
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