/価値観が合わない相手では、宗教や政治の話と同様、わかりあえることなどなく、かえってケンカになってしまう。無理に具体的にまとめようとしたりせず、中身の無い抽象的な話でリーダーシップを発揮しているかのように見せかけよう。/

 独身時代の東宮の御発言にも聞こえるように、結婚相手の条件と言えば、かつては「価値観を共有できる人」というのが第一で、まあ、すくなくとも建前としてはそう答えておくのが無難な常識というものだった。ところが、近頃は露骨に、学歴だ、年収だ、家柄だ、と言い、価値観のことなど、話にも上がらぬらしい。

 しかし、『徒然草』で有名な吉田兼好も、価値観の合わぬ人と同席しているときほど、孤独感を味わうことはない、と嘆いている。いっそ、どこがどう違うか、腹を割って話せば、それはそれで慰みにもなるが、価値観が違うとなると、異論の受け止め方も違い、ケンカにもなりかねない。ただ、早く帰ってくれないかな、と願うばかり。

 価値観が違う、というのは、正確には、具体的な物事を抽象的な概念に取り込む感性が違うのだ。たとえば、下世話な私などは、水族館に行き、魚を見ると、どれもこれも活きがいい、刺身にしたらおいしそうだ、と思ってしまう。しかし、飼育員のかたは、回遊魚を水槽で飼うのがいかに難しいか、を熱く語る。それを聞いて、この人たちは、刺身や焼魚、煮魚は食べないのだろうか、などと、ふたたび不謹慎なことばかり考えてしまう。

 旦那が、晩には魚を食べたい、と言い、帰ってみれば、タコの酢の物。タコは魚じゃないだろ、と言えば、細君は、でも魚屋で買ったのよ、と言う。ある人々は、クジラは哺乳類だ、と言い、また、ある人々は、食糧資源だ、と言う。どちらがまちがっているか、などと、言い争っても、もともと話がかみ合っていないのだから、ムダ。


続きはこちら