【中野 信子】脳科学者・中野信子が語る空気の謎。「上級国民」や「下流老人」という言葉が爆発的に広まった背景

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「なぜ、相手や周りの気持ちがわかりすぎる人ほど生きづらいの?」――。

職場や学校で、「空気」という暗黙のルールの中で生きなければならない私たち。さらに今、激変し続ける社会情勢を受け人々の不安はいや増し、空気の圧力は強まるばかりです。

そこで、中野信子さんが日本人の心性と強みを、脳科学・遺伝学・行動科学をとおして初めてひもとき、多くの共感を呼んだ大ベストセラーに、対処法を加筆したのが『新版 空気を読む脳』です。

日本人に特有の「空気を読む」能力を知ることが、賢く生き延びるための武器となります。空気に守られるか捨てられるか、その鍵が「言霊(ことだま)」です。たとえば、爆発的な空気を醸成するSNSでの生贄探しのように。第4回(前編)では、言葉の危険ラインもわかるでしょう。

空気が味方すれば事実さえ隠蔽できる

「空気」論を提唱した山本七平は、日本において言葉が単なる伝達手段を超え、それ自体が呪術的な力を持つ現象を「言霊化(ことだまか)」と呼びました。

これがしばらく前に流行した「上級国民」や「下流老人」といった現代の造語、そして「外国人排斥」という重い問題にどう関わっているのか、「空気」の観点から考えていきます。

まず、言語の言霊化についてです。現実を描写するのが言葉だと思っている人がほとんどではないかと思いますが、実際には言葉が現実を支配していることがしばしばあります。

本来、言葉は「指し示す対象(事実)」と「記号」が切り離されているものです。けれども、日本教における「空気」の支配下では、「言葉を発すること=その事態を引き起こすこと」という回路の短絡が起きます。

忌み言葉に対する心理的な反応も引き起こされます。不吉なことを言うと本当にそれが起きると信じ、論理的なリスク管理よりも「縁起」や「景気」といった言葉の響きを優先します。

さらに「言葉」による現実の隠蔽が行われるようにもなります。「失敗」「事故」を「事象」と言い換えるなどがこれにあたるでしょう。強いインパクトを与える語を避け、言葉を美化することで、「誠意を持って頑張った」人を守り(実際にはこの人が原因で引き起こされた事態であってもです)、直視すべき悲惨な現実を「空気」の力で無害化・聖域化してしまうのです。

空気の力で守られる人と、守られない人の違いを見て、私たちはしばしば理不尽に感じることがあるでしょう。これは日本教徒であるか異教徒であるかという違いなのですが、ややズレた議論として「上級国民」は守られ、「下流老人」は捨てられる、と考えられているところもあります。

「上級国民」と「下流老人」――これらの言葉が爆発的に広まった背景には、日本教特有の「穢(けが)れ」と「清浄」の感覚があります。

上級国民とは、単に富裕層を指す言葉ではなく、「法やルールを超越して、責任を免除されている(ように見える)特権階級」への怒りが込められています。

日本教では「誠意(謝罪や禊)」が免罪符になり、「空気」を使って法やルールを超越する方法を知っている人が得をするのですが、これを知らずに、ただ社会経済的地位や、うわべの謝罪パフォーマンスといった、合理性の高い手続き的な手段だけで逃げ切ろうとすると、そこがまた新たな火種となり、多くの人の怒りを買うことになります。こうした存在は、日本教の「和(平等感)」を乱す「穢れ」として激しくバッシングされてしまいます。

下流老人とは、ある種の哀れみを含んだ表現であると同時に、集団から脱落することへの「恐怖の象徴」としてのワーディングでもあります。

日本教では「人間(じんかん)にいること」が救いであるため、そこからこぼれ落ちた存在を記号化することで、「自分たちはまだあちら側(穢れ側)ではない」という安心感を得るための「空気」が醸成されます。なんとも、身も蓋もない話かもしれませんが、実際のところはこうした語の運用がなされているのではないでしょうか。

SNSは巨大な空気をつくる日本教の祭壇

さらに外国人排斥問題についても同様の分析が可能です。日本教の「異物混入」への忌避感の強さを考えれば、外国人排斥は単なる人種差別ではなく、「空気の共有が不可能な存在」への激しい拒絶の感情です。「空気」が通じないことは恐怖以外の何物でもないのです。

日本教の統治原理は、言葉を使わなくても「阿吽の呼吸」で通じ合う「空気」です。しかし、異なる文化的基礎を持つ外国人は、この「空気」を読むことができません。彼らはその意図がなくても、存在自体が「水を差す」のです。そして、日本教における穢れとして扱われることになります。

外国人排斥運動が激化するとき、そこには論理的な治安不安や経済的理由以上に、「自分たちの絶対的な神である『空気』が毀損(きそん)されてしまう」ことへの、宗教的とも言える拒絶反応が働いています。

言葉が現実を分析するための道具ではなく、「空気」をつくり出し、他人を攻撃したり自分たちを陶酔させたりするための「まじない」になってしまうことへの危機感は、もっと共有されるべきかもしれません。

誰かを「上級国民」と呼んで叩くことで正義の空気を、誰かを「下流老人」と呼ぶことで不安の空気を共有して安心し、「外国人」を排除することで穢れのない空気を守ろうとする。これらはすべて、客観的な事実や論理ではなく、日本教的な空気や情緒によって世界を把握しようとする営みの現れと言えます。

「空気」を読み、「誠意」を見せ、「日本教」に従っていれば、短期的には波風立たずすごせます。しかし、それが行き着く先は「誰も望まなかった破滅」であると、山本は戦史や社会分析を通じて警告し続けました。

現代社会を見れば、SNSはまさに「言霊」が飛び交い、一瞬で巨大な「空気」が形成される日本教の巨大な祭壇のようにも見えてきます。いわゆるネット炎上は、単なるバッシングではなく、「日本教の秩序を維持するための、宗教的な浄化儀式」としてとらえることができます。文字どおり、「祭り」というわけです。

【中編】誰が生贄に選ばれるのか……脳科学者・中野信子が指摘する「3つの大罪」