【徹底研究】なぜ河村たかしは「名古屋でだけ最強」なのか…? かつての同志が「名古屋市民が知らない弱点」を語った
地方政治の人気者といえば、維新を作った橋下徹のように、地元でさえ毀誉褒貶相半ばするものだ。しかし、奇矯な言動のわりには、この男を嫌う名古屋市民は少ない。それでいいのか、名古屋よ?
前編記事【河村たかしと「名古屋という異世界」の真実…圧倒的人気のウラには「ヤバい体力」と「独特すぎる選挙戦略」があった】より続く
河村氏の経歴
名古屋市東区、バンテリンドーム ナゴヤ近くにある河村たかし氏の自宅兼事務所は、築50年近い古ぼけた4階建てのビルだ。
'09年に名古屋市長に初当選した直後には、本当にそこから路線バスで市役所に通っていたが、「公用車に乗ってくれ」と職員に懇願されると、今度は公用車をリースの軽自動車に替えてしまった。
河村氏は小池百合子東京都知事のキャッチフレーズをもじって「名古屋は庶民ファースト」と嘯く。「庶民」の言葉にこだわるのは、自身の来歴も関係があるだろう。
'48年生まれの河村氏は、一橋大学商学部を卒業すると、実家が営む古紙回収会社「河村商事」に入った。その後、社長である父親と衝突し、検事をめざして司法試験の勉強を始めたという。
「でも、9回挑戦して結局合格できなかった。その後も34歳で県議選に出て落選、自民党に入るも公認が得られず衆院選で落選と、あまり器用ではない人生を送ってきています。
そうした来歴が『憎めない』というイメージにつながり、『金メダルかじり事件』などで炎上しても『まあ、河村さんなら仕方ない』と大目に見られる理由になっているようにも感じます」(中京大学現代社会学部教授の松谷満氏)
'93年に衆院選で初当選してからは、日本新党、新進党、自由党、民主党と革新系野党を渡り歩いた。そして国政で政権交代が起こる前夜の'09年春、名古屋市長に当選し今年まで4期務めた。
「市民はあまり政策のことを知らない」
ただし、先にも松谷氏が「市民はあまり政策のことは知らない」と言ったように、比較的景気がいい名古屋だからこそ、粗探しをされずに済んでいる面もありそうだ。
というのも、河村氏の公約は「市民税の減税」を除いて、15年間の市政でほとんど実現していないのである。名城大学都市情報学部教授で、元自治官僚の昇秀樹氏が言う。
「河村さんが市民の心を摑んだのは、初当選時の公約だった市民税減税を実行したこと、そして市長や市議の報酬を年800万円に下げると宣言したことが大きいでしょう。
市民税減税は今も続いていて、他の市町村に比べると名古屋の税金は実際にかなり安い。恩恵を受けようと、周りの市町村から移住してくる高所得者も増えています。また報酬減額については、市長報酬を先代までの年間2800万円から800万円に下げています。
一方で、それ以外は『思いつき』と言われても仕方のない、とっぴな政策が少なくない。『名古屋市内にSL(蒸気機関車)を走らせる』『繁華街の栄周辺を自動車通行禁止にする』『名古屋城を完全木造で復元する』などと議会や役所で突然言うのですが、実現の道筋については何も指示がなく、不満を抱いていた市職員も多いといいます」
“地元最強”の河村氏の「弱点」
河村氏の持論は「地方議員はボランティアにすべき」だ。そのため、自身が率いる減税日本の市議の報酬も800万円としているものの、それが議員の相次ぐ離脱を招いてもいる。最盛期には名古屋市会で28人を擁する多数派だったが、現在では9人まで減り、第4勢力に落ち込んだ。
かつて、政党「減税日本」で河村氏とともに活動した元衆議院議員の小林興起氏は、「まさに、そこが河村さんの弱点です」と指摘する。
「私は'12年に『減税日本で国政進出したい』と河村さんに乞われて、地元の東京から愛知に選挙区を移って戦ったのに、結局河村さんは総選挙に出ず、ハシゴを外された。総理を狙うと言っていたくせに、ふざけるなという思いがありました。
河村さんは抜群の知名度があり、能力も確かにある。けれども部下や同志を束ねたり、世話をして当選させることはできない。彼は保守を標榜していますが、人助けを全然しないんだから、本当の保守とは言えませんよ」
地元では最強でも、全国で通用するか否かは未知数だ。11月初め、永田町の衆院議員会館で河村氏を直撃すると、一言、
「わしゃあ、マジメに生きとるでよ」
とだけ言い残して足早に去っていった。
「名古屋の怪物」も、仲間を増やすことができなければ、国政では465分の1に埋没してしまうかもしれない。
「週刊現代」2024年11月16日・11月23日合併号より