「脳」をバグらせて”呼吸困難”に陥らせる恐怖の”神経ガス”…ロシア反体制指導者が実際に味わった「いつ死んでもおかしくない」苦しみ
真のロシア愛国者「アレクセイ・ナワリヌイ」がプーチン独裁政治の闇を暴く『PATRIOT プーチンを追い詰めた男 最後の手記』が、全世界で緊急同時出版された。1976年にモスクワ近郊で生まれたナワリヌイが目にしたのは、チェルノブイリ原発、アフガン侵攻、ソ連崩壊、上層部の汚職、そして「ウクライナ侵攻」だった。政治とカネ問題、超富裕層の富の独占、腐った老いぼれに国を支配される屈辱と憤怒。独裁政治の闇をメディアに発信し、大統領選にも出馬した彼は、やがて「プーチンが最も恐れる男」と評されるようになる。そして今年2月、彼を恐れた当局により獄中死を遂げた。
そんなナワリヌイが死の間際に獄中で綴った世界的な話題作『PATRIOT プーチンを追い詰めた男 最後の手記』より「本物のロシア愛国者の声」を一部抜粋、再編集してお届けする。
『PATRIOT プーチンを追い詰めた男 最後の手記』連載第8回
『「野次馬」の撮った動画が“決定的証拠”に...ロシア反体制指導者・ナワリヌイが厳重警備の空港で買った“紅茶”に入っていたまさかのもの』より続く
自分自身が崩壊していくような感覚
例の客室乗務員のお目こぼしのおかげで、おかしな事態の発生の瞬間を正確に思い出すことができる。あれから18日間も昏睡状態が続き、集中治療室で26日間を過ごし、入院は34日間に達したわけだが、今思えば、確かPCを取り出す前にまず手袋をして、アルコールで拭き取ってから画面を開き、例のアニメ番組が21分経過した瞬間である。
離陸時のお楽しみである『リック・アンド・モーティ』の視聴を放棄するくらいだから、よほどのただならぬ事態が発生したわけだ。乱気流くらいであきらめる私ではないのだが、画面を凝視しても集中できない。冷や汗が額を伝う。とんでもなくおかしなことが起こっている。もはやPCを開いていられない。額を流れる冷や汗はさらに増えていく。あまりの事態に、左隣のキーラにティッシュをくれないかと伝えた。キーラは電子書籍から目を離すこともなく、バッグから取り出したポケットティッシュをよこす。1枚出して、汗を拭う。もう1枚。どう考えても、何かおかしい。経験したことのない異常事態だ。何がどうなっているのか、さっぱりわからない。どこかが痛むわけではない。自分自身が崩壊していくような異様な感覚なのだ。
離陸時に画面を見ていたから、飛行機酔いかと考えた。確信が持てないままキーラに言った。「何かおかしいんだ。ちょっと私に話しかけてくれないか。ちゃんと声が聞こえるか確認したい」
奇妙な依頼だ。キーラは一瞬驚いた様子だったが、読みかけの本の内容について話し始めた。話していることは理解できる。だが、なぜか体力を使うのだ。刻一刻と集中力が衰えていく。数分後には、キーラの唇が動いているのを見ているだけの状態になった。音は聞こえるのだが、言っていることが理解できない。後でキーラから聞いた話では、「うんうん」とか「なるほど」などと相槌を打ちながら5分ほど持ちこたえ、ときには内容について聞き返すこともあったそうだ。
「もう終わりかもしれない」
飲み物のカートを押す客室乗務員の姿が目に入った。水をもらうかどうか考えていた。キーラによると、乗務員は私の返事を待っていたそうだ。私は黙ったまま乗務員を10秒ほど見つめていた。ついにキーラも乗務員も様子がおかしいと察したのだ。私は「ちょっと席を外したい」と伝えた。
トイレに行って冷たい水で顔を洗えば、少しはすっきりすると思ったのだ。キーラは、通路側席で眠っていたイリヤを起こし、私を通してくれた。スニーカーも履かず、靴下のままだった。スニーカーを履く気力もなかったわけではない。単に履く気にならず、これでいいと思ったのである。
幸い、トイレは空いていた。一つひとつの行動を振り返る必要があるのだが、ふだんはそんなことを気にしていない。当時、何が起こっていて、その後、何をしようとしていたのか。今になって意識的に努力して把握しなければならない。ここはトイレ。鍵がどこかにあるはずだ。いろいろな色のものが目に入る。これがおそらく鍵なのだろう。そいつをスライドさせる。いや、そうじゃない。よし、ここに蛇口がある。押せばいいのか。どうすりゃ押せるんだ?手を使うんだった。手はどこだ。手はある。水だ。顔を洗うんだった。頭の中には、ただ一つの思いしかない。何の苦労も必要としないことしか思い浮かばず、ほかのことはすべてかき消されてしまう。もう我慢の限界だ。顔を洗い、トイレに腰掛ける。そして初めて自覚した。もう終わりだ。
考えた末に「もう終わりかもしれない」と思ったわけではない。自覚があったからだ。
指で反対側の手首を触ってみる。ふつうなら、アセチルコリンという神経伝達物質が放出され、触ったという神経信号が脳に届くから、手首に何かを感じる。それは目でも確認し、触覚を通じて何なのか特定できる。
神経ガスの恐ろしさ
今度は目を閉じて同じことをやってみるといい。手首に触る指は見えないが、手首に触れたことは簡単にわかるし、指を離した瞬間もわかる。アセチルコリンが神経細胞間を伝わっていった後は、体がコリンエステラーゼという物質を分泌する。信号伝達作業が完了した瞬間に信号を止める役割の酵素である。この酵素が「用済み」のアセチルコリンを分解し、それとともに、信号が脳に伝達された痕跡もきれいさっぱり消失する。この機能が働かなくなると、脳は手首が触られたという信号をいつまでも際限なく受け取り続けることになる。
ウェブサイトに対するサイバー攻撃の一つにDDoS(分散型サービス拒否)攻撃というものがある。あれによく似ている。ふつうは1回クリックすれば、サイトが開くわけだが、1秒間に100万回クリックすると、サイトはクラッシュする。
DDoS攻撃に対処するには、サーバーを再設定するか、もっと強力なサーバーを導入するかだ。人間の場合はそれほど単純ではない。偽の神経信号が何十億回と押し寄せてくれば、脳は完全に混乱状態に陥り、目の前の状況を処理できなくなり、最終的に機能停止に追い込まれる。そしてしばらくすると呼吸停止が待ち受けている。呼吸自体、脳が制御しているからである。これが神経ガスと呼ばれる化学兵器の仕組みだ。
それでも私は力を振り絞って、頭の中で自分の体をチェックする。心臓はどうか?痛みはない。胃は?問題ない。肝臓その他の内臓は?不快感はまったくない。総合すると?ひどく不快だ。あまりにひどすぎる。いつ死んでもおかしくない。
どうにかこうにか再び顔に水をかける。席に戻りたいが、自力ではトイレから出られそうにない。鍵がどこにあるかもわからない。いや、すべて鮮明に見えるのだ。ドアは目の前にある。鍵もそこにある。そのくらいの力は残っているのだが、この忌々しい鍵に狙いを定め、手を伸ばし、右方向にスライドさせることがとんでもなく難しいのである。
『生命が枯渇し、抵抗する意志もなくなって迎えた「死」…プーチンが最も恐れた男・ナワリヌイの凄惨すぎる「最期」』へ続く