「あなたは私の夫を殺しましたか?」と尋ねまわる女性...イラン刑務所での苛烈な拷問と独房監禁でおかしくなっていく女性囚人たち

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イランでは「好きなことを言って、好きな服を着たい!」と言うだけで思想犯・政治犯として逮捕され、脅迫、鞭打ち、性的虐待、自由を奪う過酷な拷問が浴びせられる。2023年にイランの獄中でノーベル平和賞を受賞したナルゲス・モハンマディがその実態を赤裸々に告発した。

上司の反対を押し切って担当編集者が日本での刊行を目指したのは、自由への闘いを「他人事」にしないため。ジェンダーギャップ指数が先進国最下位、宗教にも疎い日本人だからこそ、世界はつながっていて、いまなお闘っている人がいることを実感してほしい。

世界16カ国で緊急出版が予定されている話題作『白い拷問』の日本語版刊行にあたって、内容を一部抜粋、紹介する。

『白い拷問』連載第43回

『天井が腐り虫が這いまわる部屋で「尋問」という名の「拷問」...イラン刑務所での地獄を耐え抜き手にした母との「感動」の再会』より続く

刑務所での仲間たち

語り手:セディエー・モラディ

セディエー・モラディ(1960年テヘラン生まれ)は1980年代に2回逮捕され、刑務所で過酷な体験をした。

2回目の逮捕、釈放後に結婚し、ヤサマンという娘をもうけた。政治犯だった彼女は再び2011年5月1日に逮捕され、エヴィーン刑務所209棟に送られた。テヘラン革命裁判所第28支部に「モハレベ」と「反体制組織と関係した」という判決を下され、10年の禁固刑を言い渡された。

セディエーは7ヵ月後に一般房に移送され、5年の刑期を勤めたのち、2016年12月23日にエヴィーン刑務所より釈放された。2019年、諜報治安省は再び彼女と彼女の夫、メディ・カワス・セファトを逮捕した。

--同室の囚人から何を聞きましたか?

同時期に一緒だった囚人たちは、皆が一様につらい体験をしていた。そんななかでも、イラン革命労働者機構(1978年に設立されたマルクス・レーニン主義の組織、現在はドイツに亡命中)の一員であるアルミズ・ソラヤ・モラディのように、士気を高く保ち、私たちを勇気づけてくれる人もいた。夫は処刑されていて、彼女自身も電流ケーブルで何度も打たれたせいで、足の裏の皮膚が赤ん坊のように薄くなってしまっていたのに。私も尋問中に打たれ、両目に傷を負った。助け合ってこの状況を生き抜こうと、私たちは持てる勇気を結集した。食事の内容はそれほどひどくなかったはずなのに、私たち囚人は何かを食べられる状態ではなかった。

--独房拘禁と拷問は囚人仲間にどんな影響を与えたと思いますか?

拷問と独房拘禁ののち、精神を病み、行動のおかしくなってしまった人を何人も見た。

心が壊れてしまった囚人たち

マルジエという名前の女性は、毛布の下で何時間も独り言を言い、笑っていた。彼女は苛烈な拷問を受けていた。

ナスリーンという女性は、他の囚人のところに来て片手を差し出し、「あなたは私の夫を殺しましたか?」と尋ねる。私たちが殺していないと答えると、彼女は行ってしまう。そして走りながら夫の名前を呼び続ける。彼女が独房に拘禁されていたことは知っていたが、詳細は分からない。

1981年、私たちはゲゼル・ヘサール刑務所のアンダー・エイト(独房のある区画がそう呼ばれていた。独房拘禁、あるいは暴力を伴う拷問がおこなわれていた)に入れられていた。そこにいたアナヒタという女性囚人は想像を絶する劣悪な環境に置かれていた。ドアの前の鎖に繋がれていたのだ。地獄よりもひどい光景だった。また、モジダン--モジデーだったかもしれない--という名前の元医師がいて、この人はパンしか口にしなかった。食事の肉にはタジール(クルアーンやハディースで明確な罰則が定められていない罪、国の裁量で罰する)を犯した囚人の人肉が入っていると信じていたからだ。

1985年のエヴィーン刑務所にはナデレとタヘレ・Sという姉妹がいた。タヘレは通信技術を学んでいて、ナデレは17歳の学生だ。タヘレは重圧に耐えきれず2回自殺未遂をし、ナデレのほうは正気を失う寸前だった。自分の服を引き裂き、ランプの下に立って、くるくる回り続けた。トイレに行っては、床に這いつくばった。自分に話しかけてくる声がする、といつも言っていた。他人を傷つけるようなことはしなかったが、ある夜、思い出したことを話したい、と寝ていた私たちを起こしたこともあった。

ファルザネーという農業技術者に会ったのは1981年のゲゼル・ヘサール刑務所だ。彼女は当時妊娠していたので釈放され、のちに私も釈放された。再び1985年に逮捕されたとき、ファルザネーも少し前に再逮捕されていたことを知った。そのとき彼女は正気を失っていた。トイレに行こうとせず、汚物にまみれて部屋の隅にうずくまっていた。

本当に独房はつらい場所だ。時間が流れない。独房でわずかでも慰めになるものといえば、他の囚人の声で、そこには連帯感があった。電流ケーブルで打たれて苦痛に悶えたあとは、その苦しみを言葉にして吐き出さないと生きていけなかった。

狭苦しいその場所から、トイレに行くために出ることさえできなかった。トイレは房のなかにあったからだ。外気に当たりに連れ出されることもなく、独房を出られたのは、尋問のときと、週に1回、数分だけ外のトイレを使って良いときのみだった。

私たちは男性看守にいつもビクビクして怯えていた。同志が尋問室で拷問されている声が聞こえると動揺した。

翻訳:星薫子

『「尋問」の精神的ショックで難聴と失声症に...イラン刑務所の「窒息」しそうなほど狭い独房の実態』へ続く

「拷問」の精神的ショックで難聴と失声症に...イラン刑務所の「窒息」しそうなほど狭い独房の実態