もともと義妹と同居していた老義母を引き取って同居を開始したものの、介護に四苦八苦していた60代の長男嫁。それだけでも負担は大きかったが、うつ病にかかった自分の娘と、心身症になった孫も自宅でケアすることに。さらには、実母の通い介護まで。ワンオペの多重介護で疲労困憊の嫁はある時、夫に感情を爆発させてしまう――。(後編/全2回)

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■君臨する義妹

中国地方在住の片岡智子さん(仮名・現在60代)と夫は、がんで若くして他界した義父、義弟の墓参りのついでに義母の家に寄ると、真夏の暑い日でもエアコンをつけずに扇風機。冬の寒い日は、小さな電気ストーブがひとつだけだった。

「大丈夫?」と聞いても、「慣れてるから大丈夫」と言う義母。

50代前半で義弟が亡くなると、義母は、義妹(義弟の妻)の子分のようになった。義母が、義妹から言われた小言(片岡さん家族の悪口)を伝えてくるため、片岡さんの子どもたちは義母から距離を置くようになってしまった。

それでもたまにはと訪問するのだが、家にいるはずの義妹はお茶も出さず、片岡さんたちは持参したペットボトルのお茶を飲む。

帰り際、やっと義母は本音を漏らす。

「ほんまはな、私の部屋で冷房とか暖房とかつけてたら、嫁さん(義妹)がもんのすごい嫌な顔すんねん。2階で自分もつけてるのに。電気も水道もガスも、み〜んな私が払ってるのに。私の家で私が自由にして何であかんのやろか?」

そう言って義母は霜焼けのできた足を擦った。

「義母はまだ『自分の家』と思っているけれど、家も土地も義父が亡くなった時に義弟のものになり、義弟が亡くなって義妹が相続したのだから、義妹にとってはもう、義母は邪魔な居候なのだと思いました……」

そして義母90歳の1月の誕生日。珍しく義妹が片岡さん一家を招待し、上等な寿司をとり、ケーキを振る舞った。

写真=iStock.com/show999
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/show999

いつも仏頂面の義妹がニコニコしているので不気味に感じていると、義妹は話し始めた。

「昨年、私(義妹)の父が亡くなり、母が1人になりました。心配だから母を引き取りたいのですが、すでに義母がいます。高齢の義母と母親を自分1人でケアできないので、片岡さん夫婦の家で義母を引き取ってくれないでしょうか」

義母は、義妹と同居して13年。一度も誕生日を祝ってもらっていなかった。片岡さん夫婦は、義母がこのまま義妹と同居を続けることに懸念を持っていた。そんな気持ちを知っていたかのような義妹の突然の要請に、片岡さん夫婦は断ることができなかった。

ところが、その後、衝撃の事実が発覚する。実母を引き取るという義妹の話は、真っ赤な嘘だったのだ。

■義妹の正体

結局、義妹は、義母や片岡さん夫婦の都合も聞かず、義母の引っ越しの日取りを4月に決めると、義母の荷物を片岡さん宅に送りつけた。

片岡さんの家はぎゅうぎゅうのパンパン。それを居間だった部屋にざっくりレイアウトすると、高速で1時間半ほどかけて義母を車で迎えに行く。

義母は片岡さんの家に着くなり、疲れ果てて横になった。義母の荷物から通帳を見つけた夫は、「金庫に入れとこうか?」と訊ねると、「通帳見てみて」と義母。

写真=iStock.com/kazuma seki
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その途端、夫が声をあげる。毎日のように預金が下ろされており、残高は数十万円しかない。

夫が理由を聞くと、どうやら義弟ががんになってから、治療費や葬儀代、お墓、仏壇、そして義妹と暮らしていた家の光熱費全て、そして極め付けは、義妹の息子の結婚祝いに「100万円くれ」といわれ、出したと言うのだ。

「ひどいことばかりしてきた義妹のために、なんでそんなにお金出してあげたん?」

びっくりした片岡さんが思わず口にすると、

「出さんかったら、もっとず〜っと前に追い出されてるがな!」

義母は大きなため息混じりに吐き出した。義母のアクセサリーケースには何も入っていなかったため、聞くと、義妹が「ちょうだい」と言うからあげたと言った。片岡さんは、まだ義父が健在だった頃、義母は義父に買ってもらったお気に入りのカメラを、片岡さんたちが見ている前で、義妹にあげてしまったことがあったのを思い出した。義母は「ちょうだい」と言われると断れない性格だったようだ。

義妹は義母からほぼ全財産をむしり取り、用済みになったから追い出したのではないかと思われた。

■義母と長女と孫との同居

一方、片岡さんの実家も平穏ではなかった。

片岡さんは4人きょうだいの末っ子。父親は、60歳の頃に慢性肝炎と診断されたことを機に、少しずつ長兄に薬局経営の仕事を託し、空いた時間で釣りやカメラの趣味を楽しみ始めた。

70歳の時、「始発で行ったのではいい釣り場を取られてしまう」と言って、自動車免許を取得。71歳で初めて高速道路を運転し、釣りをして帰宅。その翌日、脳梗塞を起こした。

父親は入院すると、肝臓がんが見つかる。半年から1年という余命宣告を受けると、治療の甲斐もなく、1年後に亡くなった。まだ片岡さんが30歳の時だった。

遺された母親は、30年近く悠々自適な一人暮らしを満喫していたが、2015年の92歳のとき、血尿が出たことをきっかけに病院を受診すると、腎臓がんが発覚。それから片岡さんは、月1〜2回、電車で1時間半ほどかけて実家に行き、母親の生活をサポートした。

96歳でペースメーカー埋め込み手術のため入院した2週間は、毎日2時間かけて面会に通っていた。義母を引き取った2018年4月、61歳の片岡さんは、週4日、教育系の会社でパートとして働いていた。

「私は身内でも距離感は大切だと思っていたので、『ここまではできます。ここからはできません』という線引きをました。具体的には、『自分でトイレに行けること』『私は仕事を辞めない』この2つを、何度も義母に確認していました」

要介護2で足の悪い義母の万が一の時のために、車椅子は予めレンタルしておいた。まずはデイサービスを週2で利用し始め、慣れてきたら週3に増やした。入浴は片岡さんが手伝っていたが、腰を痛めてしまい、デイサービスで入れてもらうことにした。

ところがその3年後のこと。車で10分のところに住む片岡さんの長女(36歳)とその小学生の息子(小3)が、片岡さんの家で同居することになった。理由は、小学生の息子が担任教師からの陰湿ないじめに遭い、心身症と診断されたこと。さらに、息子に対して真摯な対応をしてくれない学校側との対応に疲れ、長女自身もうつ病を発症してしまい、息子の主治医から片岡さんの家での療養を勧められたためだ。

「義母介護、私の母の通い介護が重なっていた時期と、うつ病の長女と心身症の孫が我が家で療養していた1年間は、時間的、精神的に大変でした……」

基本、義母がデイサービスに行っている間に仕事をするか、実母のサポートをしに行っていた。うつ病が重かった長女は、ほとんど家事ができない。一週間のうち何日かは、仕事の後に義母の通院付き添いや、実母の通院を2科こなさねばならない日もあった。

■介護で拗れるきょうだい仲

片岡さんの母親は2020年、97歳の誕生日まで一人暮らしができていた。しかし主治医から「腫瘍が大きくなって、リンパ節への転移も見られます」と告げられると、頻繁に微熱に悩まされるように。

子どもの頃は仲が良かったはずの片岡さんのきょうだいたちは、この頃から母親の介護をめぐり、次第に亀裂が広がっていった。

片岡さんと長兄は比較的母親の近くに住んでいたが、次兄と姉は関東で暮らしていた。それでも母親が97歳の誕生日を迎え、頻繁に微熱を出すようになると、次兄と姉が実家に滞在することが増えた。そしていつしか次兄から、母親の施設入所の話が進められていた。

だが片岡さんは、「施設に入るのは、本当に自活できなくなってからでいいのではないか?」と考えていた。母親のケアマネジャーも、「まだ一人住まいは続けられます」と言っていた。

そこで姉に電話で相談すると、信じられない言葉が返ってきた。

「私や下の兄さんは、上の兄さんやあんたほど母さんから愛情を受けていないの!」

「ずっと優しくて仲の良かった兄や姉が、別人のように冷たくなっていて、ショックでした。そんなことを言い始めたら、私は成人式の振袖は姉のお下がりでしたし、姉の就職祝いにはアクセサリーを買ってもらっていましたが、私には何もありませんでした」

関東で暮らす次兄と姉は施設入所の話を母親に囁き続け、母親もその気になったようだ。42歳で交通事故に遭った長兄は、その後遺症のため、きょうだい会議にあまり参加できずにいたが、介護の仕事をしている長兄の妻が、「家も近いですし、私が通ってケアしますよ」と申し出ても「迷惑はかけられない」と言い、母親は次兄と姉が勧める施設に入ってしまった。

ここから、急激に母親の病状が悪化していく。母親は2020年12月、98歳になる1カ月前に、眠るように亡くなった。

■夫の無配慮と義母の最期

義母は2022年、94歳の時に要介護3になり、1年ほどの空き待ちを経て、特養に入所した。

ところが2023年秋、高熱が出たため緊急搬送され、重篤な状態が続く。3週間ほどで病状は安定したが、喋ることも飲み食いすることもできなくなり、中心静脈栄養(高カロリー輸液)を行うことに。

「私が2年前の65歳のとき、坐骨神経痛を患ってしまったのですが、同じ頃、義母が足に入れていた人工関節が外れていたことがわかり、入院して手術することになりました。私は痛みを我慢して義母の入院準備をしていたのですが、夫が私のちょっとしたミスをしつこく責め続けた時は、怒り心頭でした」

片岡さんが「うるさい! それにしつこい! 大体誰の親よ? ストレッチャー押してあちこち検査に行くのも大変だし、私は足が痛いし疲れてるしで頭の半分も働いてないんよ? なんでそんな偉そうなん? もういい加減にしてよっ!」と一気にまくし立てると、さすがに夫は反省した様子。

写真=iStock.com/Chinshan Films
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その後も一日おきに義母の面会に行っていた片岡さんだったが、母親の葬儀から約3年半後、2024年4月に義母は亡くなった。96歳だった。

義母は深夜2時に亡くなった。片岡さんは38度を超える熱があったが、病院に駆けつけていた。そのまま通夜・葬儀に参列し、全てを終え、帰宅する頃には、夕方の4時を回っていた。

夫とは別々の車で来ていたため、熱のある片岡さんは、子どもや孫たちを送ってもらおうと思い、夫の車にチャイルドシートを付け変えようとした。すると夫は熱があると言ってあるのにもかかわらず、こう言った。

「お前が送ってやれよ!」

渋々孫たちを送っていってくれたが、配慮のない夫に怒りを感じた。

「もともと夫はワンマンな性格でしたが、義母の介護については協力しようと頑張っていたと思います。ただ、昔の子育てのとき、忙しいことを言い訳に、すべて私に任せていた癖が介護でも出て、その度に『誰の親やねん!』って私が怒って、喧嘩になりました。どちらにしても、夫は普通に働いていたため、ほとんど私任せでした」

葬儀のことは義母の望み通り、義妹とその息子には知らせなかった。

■実母と義母を見送って

義母と同居し始めた頃は週4日で働いていた仕事も、やはり体力的に厳しく、義母が来て1年後には週3日に減らしてもらった。昨年義母が高熱を出して入院してからは、急変の知らせで病院に駆けつけなければならないことが増え、今年に入ってから週2日に減らしていた。

「義母が高熱を出して入院した時は、夫、長女、私とで24時間付き添いました。それぞれ仕事があるため、何とか交代で回していましたが、本当に大変でした。他にも物理的に一番しんどかったのは、在宅での就寝時、尿管を尿パックに繋いでいたのに、義母が勝手に外してしまい、衣服が尿でぐしょぐしょに濡れていただけでなく、便が枕元に置いてあった時です」

写真=iStock.com/tylim
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/tylim

片岡さんは排泄に関する介護が苦手だったため、義母が部屋からトイレまでの壁を便で汚すようになった時は、毎晩夫にアルコールシートで消毒してもらっていた。

「精神的に一番きつかったのは、義弟夫婦にお金も家もあげてしまった義母のために、『私たちが施設のお金を出すの?』という漠然とした不安といら立ちに苛まれていた時です」

もともと悪かった義母の足がどんどん悪くなり、トイレの失敗が増え、認知症の症状も出てきたため、要介護3が出たのを機に特養を申し込んだ。だが、空くのを待つ間、夫とは何度か義母の施設費用のことで揉めた。

片岡さんは、「寛解中の夫のがんが再発したら」と思うと気が気でなく、自分たちが夫婦で過ごす時間が少なくなっていくことに焦りを覚えていた。

「私や義妹に対して“姑風”を吹かせていた義母は、『自分がしたことは将来自分に返ってくる』と反省している様子でしたが、本当だと思います。私は自分自身のために、義妹のようなひどいことはしたくありませんでしたし、自分が誰かの役に立っていると自信を持って思えることは、幸せなことだと思います。口に出して言われたことはありませんが、義母も夫も感謝してくれているということは伝わっていますし、義母と同居して、自分の老後を考えるきっかけになりました」

片岡さんは現在67歳。「理想の老後を過ごすにはお金が必要」ということを義母のおかげで思い知ったため、夫は65歳で定年退職しているが、定年前と同じペースで働き、片岡さんも義母を見送った後、出勤日を週3日に戻した。

「介護真っ只中で奮闘している人に『自分軸を大切に』と言っても、『自分さえ我慢すれば』となりがちですし、自分の生活を優先させると何となく後ろめたい気がしてしまいます。でも、自分優先で良いと思います。人生には後悔がつきものですが、私たちにも寿命があり、健康寿命は意外と短い。なので、残された時間で後悔のないように、時間ができたらやりたかったピアノや英会話などに本腰を入れようと思っています」

義母を引き取ったのは同情からかもしれないが、「ここまではできます。ここからはできません」という線引きとその確認をし続けたことは実に理性的であり、簡単にできることではない。

「自分のしたことは将来自分に返ってくる」ならば、片岡さんはきっと、望ましい老後が迎えられるだろう。

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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。2023年12月に『毒母は連鎖する〜子どもを「所有物扱い」する母親たち〜』(光文社新書)刊行。
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(ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)