日本史上屈指の偉人・聖徳太子の実績を全否定!『日本書紀』によって歪められた人物像【後編】

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聖徳太子の素顔

【前編】では、聖徳太子こと厩戸王に関する政治的実績や通説をほぼ全否定してきました。「今まで日本史で学んできたことは何だったんだ」と頭を抱えている人もいるかも知れませんね。

平等寺の聖徳太子像

では実際の彼はどんな人物だったのでしょうか?

かつての日本史で聖徳太子(厩戸王)があれほど政治面で評価され、肖像画がお札にまで採用された大きな理由は、やはり『日本書紀』(以下、書記)のせいです。

書紀には、「厩戸を皇太子に立てて政を執らせ、万機をことごとく委ねた」とあります。これが、厩戸王への評価が偏ったものになった一因です。

しかし、皇太子制度ができたのは厩戸王が亡くなった7世紀半ば頃のことです。彼が「皇太子に立て」られること自体がおかしいのです。

それに、皇太子に立てられたとする当時の厩戸王の年齢は20歳くらいと推定でき、とても政治を主導できる年齢ではありませんでした。

建造物に残された手掛かり

では改めて、実際の彼はどんな人物だったのでしょうか?

手掛かりは、厩戸王の死の翌年に制作された法隆寺釈迦三尊像にあります。その光背に、厩戸王を「法皇」とする銘、つまり仏教と関連付けた銘が刻まれているのです。

法隆寺金堂・五重塔(Wikipediaより)

また、書紀の中の脚色が多い記述を除くと、厩戸王の名前が最初に出るのは斑鳩宮の造営に関する部分から (605年/32歳前後)。これも大きな手掛かりです。

斑鳩宮は厩戸王の宮殿で、法隆寺造営と並行して造られたものです。働き盛りの時期に独立して寺院造立に専念し始めたとすると、彼が仏教興隆に熱心な皇子だったとは言えそうです。

総括すると、【前編】でも簡単に述べた通り、彼は政治を主導する立場ではなくあくまでも「協力者」としての立場だったと考えるのが妥当でしょう。

早逝したサラブレッド

彼は、出自のよさから皇統の面でも特別な存在だったのは間違いないようです。

厩戸王は、皇統の中心にあった欽明天皇の血に連なる皇子であり、なおかつ蘇我氏の血縁でもあるというサラブレッド的存在でした。

推古が複数の皇女を厩戸王に嫁がせたのは、その子息に皇位を継がせたかったからだと考えられます。

推古天皇(Wikipediaより)

もしも、厩戸王が推古よりも先に亡くならなければ、厩戸王系の天皇が誕生していたかも知れません。

一時期は「非実在説」などの極端論も出たりした聖徳太子こと厩戸王。しかしこのように、近年はより厳密にその実像に迫ろうという動きが盛んになっています。

それとあわせて、彼の政治的実績に対する評価も、再評価あるいは再構築しようという動きが進んでいるのです。

参考資料:日本史の謎検証委員会・編『図解最新研究でここまでわかった日本史人物通説のウソ』彩図社・2022年

画像:photoAC,Wikipedia