2系統・本牧地区でアメリカ車と併走する横浜市電の「ロマンスカー」1100型1104号車=1968年8月31日(写真:竹中洋一、しでんの学校提供 編集部にて縦横比加工)

2023年8月に開業した宇都宮ライトレールの業績が好調だという。人口減少社会におけるコンパクトシティ構想とも親和性の高い、路面電車(LRT)の「復活」に向けた先駆的な事例となりそうである。

路面電車は、低額な運賃で利用可能な交通手段として、かつて全国の都市に存在したが、急激に進んだモータリゼーションの波にのまれ、次々と姿を消していった。その代表的な例として横浜市電が挙げられる。今から120年前の1904(明治37)年7月15日に私鉄の横浜電気鉄道として開業後、1921年に市営化。1972年3月に全廃されるまで67年8カ月の長きにわたって横浜市民の足として走り続けた。

今回は横浜市電にまつわる“6つの謎解き”をしながら、どのような路線だったのか、あらためて振り返ってみたい。

謎の多い「市電のビール輸送」

■Q1:貨車でビールを運んだ?

横浜市電の前身となった横浜電気鉄道は、神奈川駅前(現・青木橋付近)−大江橋(現・桜木町駅前)間の第1期線を開業後、市街地の路線を充実させるとともに、本牧、弘明寺、八幡橋(現・磯子区中浜町)など、当時の郊外に向けて次々と路線を延伸していった。

このうち、とくに興味深いのが、1911年12月に本牧原(後の本牧三渓園前)までが開通した本牧線である。後に横浜市電の代表的な景観の1つになった麦田トンネル(現在は市道の第二山手隧道)を掘削する難工事を伴って開通したこの路線によって、「開発が遅れていた本牧方面には関内の豪商たちの住居や別荘が次々と建設」(『横浜市営交通八十年史』)されるなど、電車の路線延長は都市の拡大・発展を牽引する役割を担った。

【写真】瓶をわらに包んで運んだビール、戦前の女性車掌、「市電始まって以来の大椿事」を報じる新聞など、横浜市電ありし日の記憶(13枚)

本牧線は乗客だけでなく、貨車でビールも運んだ。1870年、ノルウェー出身のアメリカ人技師、ウィリアム・コープランド(1834〜1902年)が山手の天沼(現在の市立北方小学校敷地)にビール醸造所を設立。これを前身として、1907年に麒麟麦酒が創立された。

この麒麟麦酒横浜山手工場は、後に関東大震災で倒壊して鶴見の生麦に移転するが、それまでの間、横浜電鉄の貨車で元町河岸(中村川に架かる「西の橋」と現・JR石川町駅の間に貨物専用の停留場があった)までビールを運び、船積み・出荷されたのだ。


麦田トンネルが開削され、本牧線が開通した(写真:横浜都市発展記念館所蔵)


わらに包んだビール瓶(複製)。これを木箱に詰めて貨車で運んだという(横浜市電保存館展示品、筆者撮影)

本牧線が開通するまでは、ビールの原料となる麦やホップを馬力や大八車で、地蔵坂・桜道経由で山を越えて工場へ運び込み、製品にして再び山を越えて出荷していたというから、その苦労が緩和されたのは間違いない。

だが、ここで1つ謎がある。横浜電気鉄道の営業報告書には、「ビール会社」の貨物引込線の距離が約54.3m(実際はマイル・チェーンで表記)と記されているが、これでは工場から電車通りまでの距離(推定約500m)にまったく足りない。

本線から分岐した短い引込線の先に倉庫や荷積みを行う場所があり、工場と倉庫の間は荷馬車等で運ばれていたのではないかと推測する説もある。しかし、それも今のところ証拠となるような写真等は見つかっておらず、謎のままなのである。

「市営化」前にあった遠大な構想

■Q2:横浜市電が横浜市外を走った?

横浜電鉄は、路線の延長に積極的だった。中でも遠大な計画だったのが、逗子線の建設である。1912年4月に掘割川河口の八幡橋までが開通すると、さらに杉田を経て、逗子までの延伸が計画された。

ところが、第一次世界大戦期を通じての物価の暴騰により、建設資材の価格が跳ね上がったのに加え、会社の経営悪化がこの計画を阻んだ。経営悪化の原因はいくつか存在したが、1つは土地経営のまずさがあった。『横浜市営交通八十年史』によれば、1918年頃に横浜電鉄が所有する土地は3万6000坪に上り、うち2万坪は賃貸されていたが、残りは遊休状態だったという。

さらに電力料金の高騰が経営を圧迫したほか、米などの諸物価の上昇で生活が苦しくなった従業員による待遇改善を求めるストライキも頻発した。

苦境に立たされた横浜電鉄は、1920年4月、横浜市に対して大幅な運賃の値上げを申請したが、これが市民の反発を受け、「市民生活に重大な影響をもたらす電車事業は1私営会社に放任すべきではない」との電車公営論が高まり、市営化の直接の引き金となった。


市営化につながった運賃値上げ申請を報じる1920年4月16日付横浜貿易新報の記事「突如市民を脅かす 市内電車の値上」(当時の紙面より引用)

こうして1921年4月に横浜電鉄は解散、横浜市電気局が運行する横浜市電が誕生した。その後、1923年の関東大震災を経て、震災復興事業が進められる中、かつての逗子線計画のうち杉田までが1927年2月に開業した。ちなみに杉田を含む屏風浦村が横浜市に編入されたのは同年4月だったため、2カ月間は横浜市電が横浜市外を走ったことになる。

なお、逗子までの延伸は「市電」となったことから事業の対象外となり、京急電鉄の前身の1つである湘南電気鉄道によって建設・開業することになった。

実は事故も多かった

■Q3:運転手のいない電車が暴走した?

乗り物に事故は付きものだが、道路上を行く路面電車は、やはり事故が多かった。横浜電鉄の「第三十三回営業報告書」(自1917年12月1日〜至1918年5月31日)に掲載されている「運輸事故表」を見ると、半年の間に計76件もの事故が計上されている。

内訳を見ると、「衝突」が52件。電車同士なのか他の乗り物となのか、人との衝突なのかは分からない。おそらく、その全てが含まれているのだろう。続いて「脱線」が5件、「人為妨害」が2件、「停電15分以上」が2件、「断線」(架線切れ)が15件となっている。

昭和初期の1930年1月には、「横浜市電始まって以来の大椿事」と報道された大事故が発生した。運転手(局内では運転士ではなく運転手と呼称していた)も車掌も乗車していない車両が暴走し、他の車両に激突・大破。多くの負傷者が出たのだ。以下、1930年1月15日付の横浜貿易新報記事を引用しつつ、事故の概要を記す(「」内が引用)。

14日午前10時50分、長者町五丁目停留場で西平沼橋行き506号車が発車しようとしていた刹那、後方から猛スピードで走ってきた541号車に追突され、「大音響を発し両電車共に大破」した。

この追突した541号車は、直前まで事故現場から約1.5km先の山の上の終点、山元町に停車していた。当時の山元町の停留場は傾斜地にあり、その危険性は電気局も認識しており、山元町では「車掌運転手の下車する事を厳禁して監督まで置いて」いたが、このルールが徹底されず、541号車の車掌・運転手は下車して休息していた。


山元町への急坂(猿坂)の手前、石川町五丁目停留場ですれ違う横浜市電の車両。遠くにアーチ型の打越橋が見える=1971年3月18日(写真:竹中洋一、しでんの学校提供)

しかも、「ブレーキの止め方が不完全」だったらしく、乗客3人を乗せたまま自然発車。「急勾配の猿坂を全速力で疾走」し続け、事故に至った。この電車に乗り合わせていた郵便の集配人は、事故発生時の様子を次のように語っている。

「山元町終点に停車して居たあの電車に乗り発車を待つこと約三分間、すると電車がひとりでに動き出したので早く降りやうとしたが坂路のこととて速力が加はり降車の暇もなかつたが(中略)車橋上にさしかかつた際無我夢中で飛び降りた迄は判つて居ますが、それからあとは人事不省何もかも一切分らなくなりました」

一方、追突された506号車には、乗客乗員20人あまりが乗っていたが、「不意の大激動に俄(にわか)に将棋倒しとなり悲鳴を挙げ我を忘れて車外に逃げ出さんとして転倒し或ひは破れ硝子(ガラス)の為め重軽傷を負い」という大惨事となった。


市電の追突事故を報じる1930年1月15日付横浜貿易新報記事「自然発車の空電車が追突」(当時の紙面より該当部分を引用)

同様の事故は1943年と1948年にも起きたが、用地買収の関係から山元町停留場の移設は進まず、ようやく平坦地(現・山元町バス停)に移されたのは1949年6月になってからだった。


現在の山元町バス停は打越橋の下をくぐり、坂を上り切った先を右折した平坦地にある(筆者撮影)

戦間期の横浜に咲いた“華”

■Q4:横浜市電に「ロマンスカー」が存在した?

「ロマンスカー」と聞けば、誰しもが小田急ロマンスカーを思い浮かべると思うが、横浜市電にもロマンスカーが存在した。1936年に5両のみが製造された1100型(製造:梅鉢車両)である。

外観に流線形のモダンなフォルムを採り入れ、車内には2人掛けのクロスシート(ロマンスシート)とロングシートが組み合わせ配置されたほか、つり革や車内灯のデザインも、大変に凝ったものだった。このロマンスカー、特別感のある車両だったために人気が高かったという。

また、ほぼ同時期の1934年には女性車掌が登場した。「ホワイトの帽子、空色の上衣、紺のラシャのスカート」(横浜貿易新報1934年6月14日付)の制服に身を包み、「男性とは違ったなごやかなムードの接客態度に、女性車掌は評判も上々」「何台もやりすごして、女性車掌の電車を選んで乗る客もあった」(『横浜市営交通八十年史』)と市民から温かく迎えられた。ロマンスカーと女性車掌は、まさに戦間期の横浜に咲いた”華”といえよう。


1934年、横浜市電に女性車掌が登場した(写真:横浜市史資料室所蔵)

やがて戦争が始まると、青壮年男子が戦場へ送られ労働力不足に陥り、女性運転手が誕生した。当時は、ほとんどの電車が手でぐるぐる回すハンドブレーキであり、女性にはつらい仕事だったという。しかも、運転手といっても、まだあどけなさも残る「十五・六歳から二十歳くらい迄」(1945年1月4日付神奈川新聞)の少女たちが銃後を守ろうと必死に歯を食いしばっていた。

さらに戦時中、軍需工場への通勤輸送など市電の輸送量が増えると、ロマンスカーに改造が施され、収容力を高めるためにロマンスシートを廃止。全席ロングシートになってしまった。

それでも1100型車両は戦後も長く、活躍し続けた。1967年にワンマン車に改造され、1972年3月の市電全廃まで現役を貫いたのである。現在、横浜市電保存館(磯子区滝頭)には、1104号車が保存されている。

低運賃で庶民の味方だった市電

■Q5:数年で運賃が100倍になった?

市電の運賃の変化を追いかけると、その時代の世相が見えてくる。横浜電鉄開業時の運賃は片道3銭(当時は、かけそば1杯2銭)。その後、戦前は7銭の時代が長く続き、戦中の1943年5月から10銭になった。

ところが終戦後のハイパーインフレで1946年2月に20銭に引き上げられたのを皮切りに度々値上げが実施され、1947年6月には1円、1951年末には10円と、わずか数年で100倍にまで跳ね上がった。

1953年には13円という中途半端な運賃になったが、これは車掌泣かせだった。今よりも冬が寒かった当時、「かじかんだ手で釣り銭を渡したり、切符にパンチを入れるのが辛かった」(車掌経験者談)という。

しかし、その後は政府の公共料金抑制政策などによって市電の運賃は、ほぼ据え置かれることとなり、これが交通局の累積赤字を膨らませる大きな要因となった。1972年3月の市電全廃までのおよそ20年間で運賃が値上げされたのは、1962年(13円→15円)と1966年(15円→20円)の2回のみだった。


このように低額で利用可能な市電廃止の議論が持ち上がると、利用者から次のような意見が出された(いずれも、当時の神奈川新聞への読者投稿)。

「赤字だから、じゃまだからといって低所得者の安い交通機関を廃止するのはおかしい。バスの切り替えは実質的な値上げです(注:当時、市電運賃20円に対し、バスは30円だった)」「子安〜本牧だと私鉄なら百円以上かかり、タクシーなら五、六百円かかります。市電は二十五円に値上げしても往復五十円です。(中略)車がこむから廃止しろというのは自分勝手です」


横浜市電保存館に保存されている車両の運転台。運賃箱には「20円」の表示(筆者撮影)

新型が「昔ながら」に逆戻り

■Q6:最新技術の導入がアダになった?

信号技術の進歩が事故を減らし、台車の進歩が乗心地を改善したように、交通機関にとって技術の進歩は基本的には歓迎されるべきものである。

ところが、最新技術の導入が、かえってアダになったような市電車両があった。1951年に20両が製造された1500型(製造:日立製作所)である。

戦後、横浜市交通局はバス・タクシー等の新たな交通機関に対抗するため、乗り心地の改善と性能向上を目指した新型車両の研究を開始。その成果を生かして登場した1500型は、防振台車や間接制御(運転台で架線からの電流を直接制御するのではなく、床下にある制御器を遠隔操作して間接的に制御する方式)などの新しい技術を導入。アメリカの高性能路面電車のPCCカー(Presidents' Conference Committee Streetcar)になぞらえて「和製PCCカー」ともいわれた。


横浜市立中田小学校に保存されている1508号車(原則非公開)。1500型車両は横浜市電保存館、野毛山動物園にも保存されている(筆者撮影)


1508号車の床下の「防振台車 日立製作所」と書かれたプレート(筆者撮影)

だが、この間接制御は故障が多かったという。交通局に長年勤めた依田幸一さんが記した『チンチン電車始末記』には、原因について次の記述がある。「横浜の道路構造には不向きのようで、(昭和)三十年頃になると、途中で動かなくなる事故が続いた。原因は、床下の主制御器のドラムの接点に、”綿ホコリ”のようなゴミがつまった。このため接触不良になって通電が不可能になる」

さらに、1960年10月から市電の軌道敷内への自動車の進入が許可されると、「道路渋滞で(市電が)牛歩状態となったため、レスポンスの遅い間接制御を止める」(『RM LIBRARY 横浜市電(下)』岡田誠一、澤内一晃)こととなり、1967年、1500型全車を直接制御化した。せっかくの最新鋭車両が、昔ながらの市電車両に逆戻りしたのである。こうした技術的な退行も、その後の市電の運命を示していた。


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(森川 天喜 : 旅行・鉄道ジャーナリスト)