漱石を師と仰ぎ、約100年もの年月をかけて自らの文学を完成させた長寿作家 『精選女性随筆集 中里恒子 野上彌生子』(中里 恒子 野上 彌生子 小池 真理子選)
『精選女性随筆集 中里恒子 野上彌生子』(中里 恒子 野上 彌生子 小池 真理子選)
九十九歳十一ヶ月でこの世を去った野上彌生子(一八八五~一九八五)は、日本近代文学史上、稀にみる長命の女性作家である。ただ長く生きただけではない。近代から現代という激動の世において、周囲に流されることなく、文学者としての正統を保ち続けた希有(けう)な作家であった。
師匠は、文豪・夏目漱石。夫は能研究の権威、野上豊一郎。三人の息子はそれぞれ研究者となった。知に満ちあふれるファミリーの脇を固めるのは、雑事をこなしてくれる女中たち。そして、かわいい孫が、読書と執筆で疲れた頭を癒(いや)してくれる。
野上彌生子は、こうした人々に囲まれながら、安定感のある恵まれた文学的環境に身を置いた。本当に書きたいものだけを書き、面倒な人付き合いや生活苦にも翻弄(ほんろう)されずにマイペースに生き抜き、約百年かけて自らの文学を完成させた。
師匠・漱石をはじめとする彌生子のファミリーたちは、彼女の随筆中にしばしば顔を見せる。「毀れた玩具の馬」では息子との交流をほのぼのと描く一方で、三歳の幼児をも一人の人間として冷静に見る、作家としての観察眼の鋭さを示した。また、「嫉妬」という随筆が面白い。女中が雨戸に乳首を挟み、痛みと恥ずかしさにむせび泣く姿に若さを感じて嫉妬してしまうという内容だ。日常の暮らしのリズムのなかに、女中の乳首を通してわき起こるどこかユーモラスな嫉妬心は、生ぬるいリアリティーがある。「カナリヤ」にも、少しとぼけた女中が登場するが、野上家の女中の存在感は抜群だ。
さらには、成城の自宅、軽井沢の山荘での生活も随筆中に多く語られる。「やまびとのたより」「山草」「ひとりぐらし」「秋ふたたび」などの一連の随筆では、山荘の草花や樹木、鳥の鳴き声に囲まれる生活をゆったりと描いた。山荘で、時計は必要ない。自然の流れに身をまかせる彌生子の姿には、自らをせかせかと時代にリンクさせていくような焦りが微塵(みじん)も見られない。だからであろうか、一読すると、どの時代に書かれたものなのかよくわからない上に、そんなことはどうでもよくなってくる。ちなみに、先にも紹介した「カナリヤ」には、飼っている鳥が雌なのか雄なのか、一切気にとめない野上家の人々が描かれる。気にしない、どうでもいい、という感覚。決して投げやりなわけではない。百年の時間をもった彌生子の余裕というべきか。
一方で、時代を早足に駆け抜けていった作家たちも随筆に多く登場する。「野枝さんのこと」「芥川さんに死を勧めた話」「宮本百合子さんを憶う」で描かれる伊藤野枝、芥川龍之介、宮本百合子は、長くはない生涯を送った時代の勇士たちである。彼らに対する彌生子の言葉は真摯だ。とくに、二十八歳でむごい殺され方をした伊藤野枝に関する随筆に胸を打たれる。激しいイメージの野枝であるが、彌生子の文章は、そんな彼女の本質であるところの「可愛らしさ」を読者の胸に印象付け、後世に語り継ぐ。人間の本質を見つめる彌生子のまなざしは、強く、確かなものであり、時代や社会に翻弄されることは決してない。
本質へのまなざし、これが太い杭のようにしっかりと作家の中に打たれていなければ、生き抜き、書き続けることはできない。「五月の庭」では、社会がどのように変化しようとも根強く命を保ち、花を咲かせる自宅の藤の花を見つめ、こう記した。
どんなことをしても生きなければならない。成長しなければならない。花を咲かせ、実にならせなければならない。下の棚で生きて行くのがむずかしいなら、どこか生きられる場所を探さなければならない。
「生きられる場所」が必要なのである。そこで、花が咲く。一方で、先にも紹介した随筆「山草」の中では、崖ぞいの斜面に群がり咲いた「がんぴ」を見て彌生子はこう述べた。
咲かなければならないものは、また咲きうる力をもっているものはいつかは屹度花になるのだ。
「がんぴ」が「がんぴ」の花を咲かせること、それが本質だ。藤は藤の花を咲かせる。「がんぴ」に藤は咲かない。野上彌生子は野上彌生子の時間を全うする。そのために「生きられる場所」が必要なのである。
彌生子は「生きられる場所」に天性的に恵まれていた。彼女の生家は大分県・臼杵(うすき)市の醸造家であった。酒や味噌、醬油などをつくり、財をなし、後には「フンドーキン醬油」として発展した。彼女はこんな実家において、理解のある両親のもとにすくすくと育ち、文学に目覚めた。十四歳で上京し、叔父の家に世話になりながら明治女学校に通い、同郷の帝大生・野上豊一郎と交流をもつようになった。知識があり、性格は穏やかな人であった。この人と結婚すれば文学を続けることができる、という彌生子の直感は的中し、結婚後、夫の収入がそれほど多くはない時期においてさえも、女中を二人もおいてくれた。おかげで、彌生子は家事などに忙殺されることなく、好きな文学の勉強に邁進(まいしん)することができた。
さらに、夫・豊一郎を通して彌生子は夏目漱石を知ることができた。自ら書いた小説を読んでもらい、文壇的には、漱石門下という、近代文学史上、最大の派閥の一員となった。女性作家の派閥と言えば、当時話題になったのは、平塚らいてうを中心とする、女性による、女性のための革新的な文芸雑誌「青鞜(せいとう)」だ。「青鞜」は世間の注目を浴び、らいてうたちは「新しい女」と呼ばれ、もてはやされた。彌生子も誘われたが、すぐに脱退してしまった。その理由は、「ジャーナリズムにも乗せられ、私の書斎主義では同調されなくなった」ためだ。彌生子にとって「青鞜」は「生きられる場所」ではなかったのである。
女性の自立を訴え、社会の変革を求めた「新しい女」たちからしてみれば、彌生子は保守的と映ったことであろう。家や時代、社会への変革を求めないし、冒険はしない。身の丈にあった安定感のある「生きるための場所」を得、守ることに徹した。こんな彌生子に、私はサッカーのゴールキーパーの姿を重ねる。守ることに徹し、最先端で攻撃はしないため、それほど注目は浴びない。しかし、守る力は偉大だ。なぜならば、キーパーが守り続け、守りきれば、絶対に負けないからである。
こうした彌生子の保守の精神は、何よりも、師匠・夏目漱石の存在があってこそのものであった。「夏目先生の思い出――修善寺にて――」には、漱石への思いが綴られる。「読んで頂く人として先生をいつも一番に頭に入れていた」という言葉を読むと、時代に流されない本質へのまなざしは、心から信頼できる漱石という師匠がいたからこそ、確固として彌生子のなかに深く根付いていたことがわかる。
そもそも彌生子の文壇デビューは漱石に作品を認められたことに始まる。彌生子はこの恩と尊敬を、終生抱きながら文学の道を歩んでいった。翻訳を行い、短編小説を地道に書き続け、三十七歳で『海神丸(かいじんまる)』を発表し文学者としての成長を示すと、四十三歳から四十五歳にかけて長編『真知子』を書き上げた。五十歳代から戦争を挟んで七十歳代にかけては大長編『迷路』を完成させ、読売文学賞を受賞する。七十歳代後半からは迫真の名作『秀吉と利休』を書き、女流文学賞を受賞した。野上彌生子文学は、開花した。
漱石は、はじめて彌生子の小説(習作『明暗』)を読んだときに、まだ二十歳そこそこの彼女に「年は大変な有力なものなり。……余の年と云ふは文学者としてとつたる年なり」(一九〇七年一月十七日の彌生子宛の書簡)と伝えた。彌生子は師匠・夏目漱石の言葉を守り、生涯の最後まで、「生きられる場所」で一人、ものを書き続けた。
言葉を保ち続け、守り続けたこと。ここに野上彌生子の保守精神の美しさとひそやかな激しさがある。いくら恵まれた環境にいたとしても、とんでもない変化球も飛んできたであろうし、汚れた球を投げつけられたこともあっただろう。しかし彌生子は自らの文学の正統を死守し、結果として、末広がりな、大きな人生を全うしたのである。