北朝鮮・平壌の万寿台にある金日成氏(左)と金正日氏の銅像(写真・福田恵介、2013年撮影)

北朝鮮の金日成主席が死去して30年になる。そんなにも時間が経ったのかという思いとともに、今も忘れられない当時の光景がよみがえる。

1994年7月9日。北朝鮮の国営メディアが特別放送で金日成氏の死去を報じると、ソウルの街で涙を流す人がいた。泣き崩れる人もいた。目に焼き付いているのは、そんな場面だ。

韓国の人々が「統一」に抱く思いは時の流れとともに多様化してきた。変わったところもあれば、変わらない思いもあるだろう。対話はおろか、接点さえも見つけにくい現在の南北関係を思うと、まさに隔世の感がある。

第1次核危機に飛び込む

1994年6月。私は韓国語の研修のため、乗客が数人しかいない飛行機に乗って、ソウルに向かった。客席がガラガラだったのは、北朝鮮の核開発をめぐって緊張が高まり、いわゆる「第1次朝鮮半島核危機」の真っただ中だったからだ。時間をもてあますかのような客室乗務員から「こんなときに大変ですね」とねぎらわれるほどだった。

その前年となる1993年に、北朝鮮はIAEA(国際原子力機関)の特別査察を拒否し、その後、NPT(核不拡散条約)からの脱退を表明した。

私が韓国入りする3カ月前に軍事境界線上の板門店であった南北の実務者協議で、北朝鮮側が「ここからソウルは遠くない。(ひとたびことが起これば)ソウルは火の海になるだろう」と発言した。

緊張は高まり、スーパーや百貨店には即席ラーメン、缶詰といった保存食を買い占める人たちが大挙して、売り場の棚には何もないという現象が起きていた。

そのような中、アメリカのカーター元大統領が訪朝し、金日成氏と会談。金日成氏から「核開発凍結」の言質を引き出し、一転、危機を回避した。私の韓国語研修が始まったのは、まさにその直後だった。

訪朝を終え、韓国に戻ったカーター氏は、金日成氏から当時の韓国大統領である金泳三氏へのメッセージを携えていた。それはほかでもなく、「いつ、どこでも、無条件で金大統領と早い時期に会いたい」という内容だった。

南北はついに1994年6月28日、平壌で翌7月25日から27日まで、南北分断史上初の金泳三氏と金日成氏による首脳会談を開くことで合意した。カーター氏が伝えたメッセージの内容が明らかになったとき、「それでも南北首脳会談など夢のまた夢」といった冷めた見方も少なくなかったが、この合意は韓国国内を震撼させた。

メディアは、南北ちりぢりになって暮らす離散家族の声や対話派、強硬派それぞれの主張を手厚く報じた。良くも悪くも「何かが変わるのでは」という手応えを、ほとんどの韓国の人々が感じているということが、ソウルでの生活を始めてまだわずかな時間しか経っていない私にもよくわかった。

だが南北統一をも視野に入れるような、その熱い思いは、金日成氏の死去によって、はかなくついえる。

のどかな土曜の午後が急変

1994年7月9日のソウルは、朝から蒸し暑い日だった。韓国で「ハスクチプ」と呼ばれるまかないつきの下宿にいた私は、土曜日で語学学校の授業がないのをいいことに、朝食もとらず、遅くまで寝ていた。そんな中、下宿の主、ヨンギル爺さんの元気な声で跳び起きた。

「おい貴様、何時まで部屋で寝てるんだ!」

私の頭にとっさに浮かんだ一言は、「出た」だった。ヨンギル爺さんは戦前の皇民化教育を受け、旧日本軍に徴兵された。ご本人によると、シベリアで抑留され、筆舌に尽くしがたい厳しい日々を送り、何とか祖国にもどってきた。話を聞いていると、取材者として興味深い当時の状況がわかるのだが、今で言う鉄板ネタは「貴様」だった。

「上官が『貴様』というから最初、日本軍は丁寧で親切だと思ったんだ。だって、貴と様だぞ。おれたちのことをちゃんと尊敬してくれているのかと思ったが、まったく逆だった。おれはお前のことを敬意をこめて貴様と呼ぶが、それでいいか」

ゆっくりとではあるが、しかしまったく文法的にはおかしくない日本語で、そう言っては笑わせるのだった。

下宿で日本語を話せるのは、学生たちを含めてもヨンギル爺さん1人だけ。細かい意思を伝えたいとき、なくてはならない存在なだけに、良好な関係を保ち続ける必要がある。

「貴様」と呼ばれると絶対的命令と受け止め、すぐに返事して部屋を出た。

「きょうは暑い。行きつけのタバンに冷たいコーヒーを飲みに行くぞ」

タバンとは「茶房」。喫茶店だ。上官の命令を受け、着の身着のまま行きつけにお供し、下宿に戻った。「昼はおれが辛ラーメンを作るから一緒に食べよう」。これまた上官の厚意に甘え、部屋に戻ったそのときだった。

「おい! これは大変だ。あなたすぐに会社に行きなさい」

動転している様子からも、鉄板ネタの「貴様」ではなく「あなた」と言ったことからも、尋常ならざる何かが起きていることが直感でわかった。

「き、金日成が死んだぞ」

ひざまずき慟哭する若者

金日成氏が前日に死んだことを伝える朝鮮中央テレビの特別放送は、死去翌日の1994年7月9日正午から始まった。辛ラーメンを作る前、テレビを見ていたヨンギル爺さんは、速報に接し、腰をぬかさんばかりに記者である私に知らせてくれた。

下宿を飛び出して大通りに出ると、驚くべき光景が広がっていた。歩道に立ち尽くし、何人かの若者たちが肩をよせあってむせび泣いていた。1人の女性は道路にひざまずいて慟哭していた。

新聞社のオフィスに行くと、改めて学生たちの声を聞きに行くことになり、学生街に戻った。

首脳会談が決まっていただけに残念でならない」「南北のバランスが崩れて韓(朝鮮)半島が不安定化しないか心配」といった声のほか、「生まれたときから南北に分断されていたので、特別な感情はない」という意見まで、さまざまだったが、今度は涙を流している人を見つけることはできなかった。

その後で南大門市場に移動した。「失郷民」と呼ばれる、北朝鮮側を後にして韓国に来た人々が闇市を始めて大きく広がったとされる市場は、異様な空気に覆われていた。

商いをする人に飛び込みで尋ねてみると、1人目の女性がまさに失郷民だった。

女性は話をしているうちに涙声になり、嗚咽し始めた。率直に言って、細かい話は聞き取れなかったが、北にいる身内の話をしているのはわかった。

途中から近くの商店主らしき男性が日本語で通訳してくれた。やはり女性は、離散した家族との再会を心待ちにしていたが、金日成氏の死去により、思いがかなわぬことを嘆いていた。

この男性によると、死去の一報が流れた直後、あちこちに涙を流す人がいたという。「北の体制を認めるわけではないが、金日成という存在は特別な重みがあり、最高指導者の死に、われわれはいろんな思いをめぐらせる」。そんな趣旨の説明を男性はしてくれた。

さらにそれから1カ月ほど後、統一問題にも詳しい韓国紙の幹部に「金日成氏死去時の韓国の市民の涙をどう考えればいいか」と聞いてみた。その幹部は「韓国人の北韓(朝鮮)観は人によって異なる。憎悪や失望、あるいは憧憬かもしれない。涙の意味もさまざまだろう」と語った。

多様化する韓国の統一観

あれから30年。北朝鮮では金主席の息子である金正日氏も死去し、金正恩氏が3代目として権力を世襲した。

カーター氏の訪朝で危機を回避した後、核兵器製造への転用の可能性が比較的低いとされた軽水炉型原発の供与を受ける代わりに北朝鮮が核開発を凍結する「米朝枠組み合意」が結ばれたが、やがて破綻した。

2003年から2007年まで、6回にわたって行われた日米中ロに南北朝鮮が加わった「6者協議」もうまくいかず、北朝鮮はついに事実上の核保有を実現した。

かたや韓国では、左右それぞれの志向を持つ政権が、対話と圧力の配分を変えた統一政策をくり出して迫ったが、結果として目的を達成できたとは言えずに終わってきた。

現在の尹錫悦政権にいたっては、過去に例のないほどの対北強硬策をとり、過去30年間、どの政権も手をつけることはなかった民族共同体統一方案の変更に着手しようとしている。

これらの強硬姿勢に北朝鮮は強く反発し、ついに金正恩氏が自らの口で、韓国は同族、同質関係ではなく、「最も有害な第1の敵対国家、不変の主敵」とまで述べるに至った。

「本音では統一を願っていない」?

日本ではしばしば「韓国の大半の人は本音では統一など願っていない」という議論が聞かれる。確かに朝鮮戦争の休戦(1953年)からだけでも70年以上が経ち、朝鮮半島をとりまく国際情勢が激変するなか、韓国の人々の統一観が変化してきたのは言うまでもない。

同胞意識からの統一よりも、地域の安定を望むための共生を願う人々が増えてきたことも世論調査などで明らかになっている。ただ、安易な統一否定論もまた、現実を言い当てていないように思う。それぞれの統一観は、隣国から見て、すぐに合点がいくほど単純ではなさそうに映る。

30年前、韓国の人たちが流した涙の意味を、今も考えている。

(箱田 哲也 : 朝日新聞記者)