日本S直前に“暴かれた”去就 敵にバラされメディア殺到…名将が機嫌損ねた一言
伊勢孝夫氏は打撃コーチとして野村ヤクルトの3度の優勝に尽力
伊勢孝夫氏(野球評論家)はヤクルト打撃コーチ時代に1992年、1993年、1995年とリーグ優勝を3度経験した。1993年は西武を4勝3敗で下して日本一。1995年にはオリックスを4勝1敗で退け、伊勢氏はこの年限りで野村ヤクルトを退団し、近鉄のヘッド兼打撃コーチに就任した。その“異動劇”に関して、冷や汗をかく事態がよりによって日本シリーズ第1戦の開始前にあったという。
1995年の日本シリーズは、ヤクルト・野村克也監督の「ID野球」とオリックス・仰木彬監督の「マジック采配」の対決が注目を集めた。野村監督はイチロー外野手対策としてインハイ攻めを予告するなど、戦前から仕掛けていった。伊勢氏は「インハイといっても148キロ以上という条件付き。そういう意味でも1戦目(10月21日、神戸)の先発が(テリー・)ブロスだったのはよかったですね」と振り返った。
第1戦のイチローは4打数1安打。7回の第4打席に中前打を放ったが、それまでの3打席は右飛、三振、中飛。対策成功で試合も5-2で勝利した。もっとも、打撃コーチだった伊勢氏は「1戦目の相手先発が野田(浩司投手)じゃなかったのも大きかった」と話す。ヤクルト打線は、仰木監督が先発マウンドに送ったベテランの佐藤義則投手を5回途中でKOしたが、「野田が来ていたら、負けていたんじゃないかな」と言うほどだ。
「野田にはね、彼が阪神にいるときからフォークできりきり舞いさせられて、やられたイメージしかなかったんですよ。それがどうしても頭から離れなかったんだけど、シリーズ開幕の1週間前に、あるところから佐藤が名古屋の整体に行ったという情報が入ったんです。これはもしかして1戦目は佐藤じゃないかとなって、佐藤と野田を半々でミーティングしていたんです。で、佐藤だったから、やっぱりか、ってなりましたね」
4勝1敗で制したその年の日本シリーズは、イチローのリズムをブロスで狂わし、打線が佐藤を攻略した第1戦の勝利がヤクルトにいい流れをもたらしたとみている伊勢氏だが、実はその試合前に自身は別のことで肝を冷やしていた。「ノムさんの機嫌が悪くなりましたからね」。その原因は、伊勢氏の近鉄復帰問題に絡んだものだった。
日本S開幕前、後輩の近鉄監督就任を口利き…自身も受けた入閣要請
話はシリーズ前に遡る。きっかけは近鉄新監督候補に当時評論家だった佐々木恭介氏の名前が報じられたことだった。「恭介は実家が同じ兵庫県で丹波の方なので、昔からかわいがっていて『来年、お前が監督をやるようなことが新聞に出ていたけど、そんな話、あるんか』って電話したんです」。
さらにこう続けた。「恭介が『そんなのひとつもありません』って言うので『実際のところはどうなんだ、やりたいのか、やりたくないのか、どっちや』って言ったら『やりたいです』って。それで『今村の親父に電話で相談してお願いしますって言ったのか』と聞いたんですけどね」。
伊勢氏は1963年から1976年まで選手として近鉄に在籍。「今村の親父というのは私が現役でやっている時の球団フロントで、まだ、力がある人だったんですが、恭介は『僕は今村さんを知りません。伊勢さんは知っているんですか』と……。『知っているよ。いまだに付き合いもあるよ』と話したら『お願いしてくれませんか』という話になって、私が今村さんに『恭介にやらせてもらえませんか』と電話したんですよ」。かわいい後輩のために一肌脱いだわけだ。
「今村さんには『伊勢よ、3日待て』と言われました。で、3日目に電話がかかってきて『お前がヘッドコーチで(近鉄に)帰ってくるなら、佐々木に監督をやらせる』って。『ちょっと待ってくださいよ。私は今から(オリックスとの)日本シリーズなんですよ』と言いましたよ。そしたら『返事は日本シリーズが終わってからでいいから、とりあえず、そういう条件付きだ』となって……。それを恭介に伝えました」
そんなこともあって日本シリーズの開幕を迎えた。「1戦目に(ヤクルトが)球場入りしたときに、恭介が(近鉄内野手の)中村紀洋と一緒にファースト側のブルペンの近くにおったんですよ。恭介は放送局の仕事などがあったのでね」。伊勢氏は佐々木氏に「球場では俺のところには絶対来るなよ。そういう(近鉄人事の)噂は新聞社も知っているから、ええネタになってしまうぞ」と伝えていたという。ところが、思わぬ展開になった。
日本一直後に退任の挨拶…野村監督から「苦労かけたなぁ」
「恭介も『わかってます』って言っていたのに、私が球場に着いたらどんどん近づいてきたんですよ」。伊勢氏は自身の恩師で、その時はオリックスのヘッドコーチだった中西太氏に挨拶。「オリックスのティーバッティングのところで太さんと話をしていたら、恭介がファーストベンチの前までやってきたから、“あいつぅ”って思っていたんです。そしたら今度は太さんがあおりよったんです。新聞記者とカメラマンに向かって『来年の近鉄監督とヘッドコーチやぞ』ってね」。
その瞬間、カメラマンが伊勢氏を一斉に撮りだした。「シリーズ1戦目の前ですよ。新聞社が全部、こっち向いてパチパチって。そりゃあノムさんは機嫌が悪くなりますよね。恭介が『もうこうなったら野村さんに挨拶しないといけないですかね』っていうから『当たり前だろ、来るなって言ったのに。ノムさんはそこにおるから“お世話になります”って頭下げてこいよ』って行かせたんですよ」。そんなスタートからの日本一。伊勢氏がホッとしたのは言うまでもない。
10月26日の神宮球場での第5戦に勝利して野村監督を胴上げし、祝勝会後の都内のホテルで伊勢氏は指揮官の部屋を訪ね、「長い間ありがとうございました。お世話になりました」と挨拶したという。「ノムさんはパンツ1枚でケツを向けたままだったけど『うーん、そうか……。お前にはずいぶん苦労かけたなぁ、ありがとうな』って初めて言われました。それから家に帰って家族会議を開き、今村の親父にも『お世話になります』って電話したんです」。
1990年から1995年までのヤクルト打撃コーチとしての6年間は、伊勢氏の指導者人生を大きく変えた。思い出は尽きない。野村克也氏には感謝しきれない。そんな気持ちを胸に、1976年オフにトレードでヤクルトに移籍して以来の近鉄のユニホームに袖を通した。佐々木監督を支えるヘッド兼打撃コーチに就任した。それは同時に野村ID野球の伝承者としてのスタートでもあった。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)