目の前で仲間を撃たれ、兵士になった人気モデル 日本での「夢」とは

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 木がうっそうと茂る山の中。掛け声をかけながら、足並みをそろえて走る人たち。その中に、色白で華奢な女性の姿が見える。ハニーヌェーウーさん、25歳。ミャンマー西部ラカイン州で、市民を攻撃する国軍に抵抗するため、訓練を続けている。
実は、3年半前は、ミャンマーの若い人で知らない人はいないくらいのインフルエンサーとしてモデルや俳優の活動をしていた。「自分の仕事が大好きだった」。そんな彼女がなぜ銃を手にすることになったのか。(「サタデーステーション」ディレクター 染田屋竜太)

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「最後まで戦うつもりです。軍事政権をなんとかなくしたい」
ハニーさんはパソコンのモニター越しにそう話した。柔らかく優しい感じの声だが、国軍の話になると、手ぶりを交えて声も強くなる。

ハニーさんが所属するのは、学生たちが中心になり、民主化のために国軍と戦うおよそ500人の部隊だ。今は本部で「会計担当」として物資調達などを担うが、いつ、最前線にでてもいいように訓練は欠かさない。体力トレーニングから銃の打ち方、救護方法を学ぶ。泥にまみれながら、食事も少なく、ぎりぎりの生活だという。

「3年半前には想像もつきませんでした」とハニーさんは話す。

若者はみんな知っている「インフルエンサー

戦後、50年以上軍事政権だったミャンマーは2011年に民政移管し、2016年には、アウンサンスーチー氏率いる国民民主連盟(NLD)が政権を取り、一気に民主化が進んだ。

「ラスト・フロンティア」と呼ばれ、日本企業など世界から企業や資金が競うように進出、急激に経済成長した。軍政下ではご法度だった自由なメディアも生まれ、自由に発言できるSNSも瞬く間に広まった。

「私は自分の仕事が好きだった。夢や希望があった」。大学卒業したハニーさんはモデルとしてテレビCMに出演したり、ドラマや映画で演技を披露したりした。フェイスブックには約90万人のフォロワーがいるインフルエンサーとして、「ミャンマーの若い人で知らない人はいない」とさえ言われた。

私は2017年から2020年まで、ヤンゴンに特派員として赴任していた。街のあちこちで工事が行われ、若い起業家たちが「こんな事業を始めたい」と目を輝かせて話していた。

それが一転したのが、2021年2月1日、国軍によるクーデターだった。実質的な国のトップだったアウンサンスーチー氏は拘束され、首都ネピドーや最大都市ヤンゴンには戦車や軍用車が並んだ。このクーデターは、その年の夏に引退を控えた、国軍司令官ミンアウンフラインが権力にしがみつくためだったといわれている。

私はすでに特派員を外れ日本に戻っていたため、現場の空気を感じられなかったが、以前取材した人と連絡がとれなくなり、連日、国軍の市民への攻撃やそれに反発するデモ活動などSNSの映像が次々に飛び込んできた。

ハニーさんはクーデター後、国軍のやり方に反対するデモにも参加した。
ただ……。
 「(クーデター直後は)そこまで深刻だと感じていなかった」という。
連日デモ活動が続き、各国が一斉にミャンマーを厳しく批判。専門家らの間では「国軍の政権はそれほど長く続かないのではないか」という予測もあった。

だが、デモが各地で盛り上がると、国軍はちゅうちょなく市民を銃撃し始めた。デモに参加していたハニーさんは、記憶から消せない光景を目にする。

人生を一変させた、ある光景

「国軍は、武器さえ持っていない仲間を目の前で、残酷にも撃ち殺しました」

この瞬間、「何かしなければ」という気持ちがふくらみ、おさえきれなくなったという。
「私は自分の仕事が好きだった。夢に向かって頑張っている途中だった」
だが、仲間が、国全体が軍に好き放題にされていることに気づいた。息子を殺され、遺体にすがりながら泣き崩れる父親の姿をSNSで目にした。ハニーさんも涙を流さずにはいられなかった。

「仲間と一緒に自由のために戦いたい」
両親は「お前を危険な目に合わせたくない」と反対したという。だが、ハニーさんは折れなかった。「今まで自分のため、自分の家族のために生きてきた。これからは仲間のため、自由のために何かしたい」

私は、ミャンマーで特派員をしていた時からそうだが、記事などで「民主化」とか「自由」という言葉を使うとき、何となく「恥ずかしさ」を感じてしまう。裏返せば、自分がこれまでの人生でそういうことを肌で感じてこなかったからだと思う。「平和ボケ」していたのかもしれない。

実は、クーデター後も、ヤンゴンなどはショッピングセンターも開き、「普通」の生活が営まれているようにも見える。ハニーさんも、ヤンゴンで家族と暮らす道を選ぶことはできた。だが、命の危険をおかしてまで「戦う」道を選んだ。

本来は特派員の時のように現地に行って、民主化部隊の生活や訓練を取材し、ハニーさんと対面でインタビューをしたかった。だが、現在はジャーナリストビザの取得も簡単には認められず、入国を果たしても、国軍に尾行されることが予想される。ハニーさんたちがいる場所まで軍に伝えてしまっては、何のための報道かわからない。泣く泣く、リモートでの取材にした。

「日本に行ってみたい」その言葉に続いたのは……

訓練や部隊の作戦会議後、疲れているのに「ぜひ話したい」とハニーさんはZoomでのインタビューに応じてくれた。部隊の基地は、竹で組んだ簡素な小屋。雨季で蒸し暑く、汗が噴き出す中、言葉を選びながら答えてくれた。

――ヤンゴンで暮らすこともできた。後悔はしていない?
「後悔はしていません。何もやらずにはいられないと思いました」
――どんなふうに軍に対抗している?
「武器も着るものも必要なものしかない。皆、節約しながらぎりぎりの生活をしています」
「(国軍の攻撃で)仲間も失っています。そんな時は、なぜ支えられなかったのか、自分を責めています」

これまでの自分の人生、思いや今の生活を、時々考え込みながら話してくれた。

「日本の人に、何かメッセージがありますか」と尋ねると、ハニーさんは一瞬笑みを浮かべた。

「実は、東京ディズニーランドに行きたいんです」
「日本に行けるなら、お花見をしてみたい、着物を着て写真も撮ってみたいです。私は日本のアニメや漫画を読んでいて、日本の文化に触れたいんです」

そして、少し声を落としていった。

「もし私が生きて、日本に行くチャンスがあるなら……」

理解はしているつもりだったが、彼女が本当に「死」と隣り合わせだと、頭を殴られたような衝撃を感じた。

「自分たちが望む新しい国で安心して、平和で、楽しく暮らしたい。もし命を落とさずにいられれば、それを希望に進みます」「隠れた」ミャンマー問題、「忘れないで」

ハニーさんたちの部隊は、ラカイン州の少数民族勢力、「アラカン軍」と協力しながら国軍に抵抗している。空爆など圧倒的な戦力の差に押し込まれていたが、今は少し押し返しているという。部隊のリーダーは、「戦闘中に手足を失うなど大けがをする仲間も多い。僕たちは皆、昔の生活を捨てて武器で戦う道を選んだ。ハニーさんもいろいろなものを犠牲にした。尊敬できる同志だ」と話してくれた。

ハニーさんはインタビューの最後のメッセージに力を込めた。

「世界には私たちの国のように、市民が権利を奪われ、正しくないことがあふれた国がある。そのことを、皆さんにも知ってほしい」

訓練を一通り終えたハニーさんは近く、より危険な地域に移る可能性もあるという。個人的には、ミャンマーの問題はウクライナやガザ地区に隠れ、報道も少ないと感じている。その裏では、彼女のような若くて将来もあった人が、人生を投げうって「自由」のために戦っている。その現状を伝え続けたいと思う。