松野明美「私を五輪に出せば確実にメダルを取れます」直訴会見の結末/スポーツ界を揺るがせた「あの大問題発言」

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「オリンピックに出たらメダルは取れると思っていますので、どうか選んで下さい!」

 バルセロナ五輪、女性マラソンの出場選手選考会を3日後に控えた1992年3月26日、異例とも思える記者会見を開き、こうアピ―ルしたのが松野明美だった。

 当時、五輪選考レースに指定されていたのは、1991年夏の北海道マラソンと世界選手権のほか、1991年11月の東京国際マラソン、1992年1月の大阪国際マラソン、そして1992年3月の名古屋国際マラソンの5つ。

 世界選手権で2位になった山下佐知子がすでに代表に内定し、4位の有森裕子が内々定となったことで、以降は選考レースに出場していなかった。スポーツ紙記者が振り返る。

「陸連は残り1人の資格を、大阪国際で1位になるか、もしくは有森の記録を抜くこと、という条件を出していた。ところが大阪国際では無名だった小鴨由水が優勝。しかも出したタイムが2時間26分26秒という日本新記録だったことで、代表に内定してしまった。2位に入った松野も2時間27秒02と、有森の自己ベストを大きく上回っていたため、3枠目をめぐって有森VS松野の代表入りに俄然、世間の目が注がれることになりました」

 そうした事情から、3枚目の切符を手にすべく松野が臨んだのが、陸上界を揺るがす「直訴会見」だったのである。松野は笑顔でこう続けた。

「暑さは大好きです。これまでも熊本の暑さの中で走ってきました。坂も阿蘇で走っています。プレッシャーにも負けません。プレッシャーはあった方がいいくらい。日の丸をつけたらトップで走ります。確実にメダルを取れます」

 その言葉は自信に溢れていた。そして選考結果は――。

 3月29日に陸連から発表された最後の1枠は「有森裕子」だった。理事会後の記者会見に臨んだ陸連の小掛照二強化本部長は、

「暑さは今回のバルセロナで重要なポイント。バルセロナの30度近い気温、坂を考えて、経験豊富な有森を選んだ。松野はマラソンでは暑さの経験がない。経験の山下、有森に託して(メダルの)チャンスを生かしたい」

 むろん、陸連には「なぜ記録がいい方を選ばないんだ。これでは松野があまりにも不憫ではないか!」という抗議電話がじゃんじゃんかかってきたという。

 そうした批判の声を跳ね返すかのように、有森は本番で銀メダルに輝く。日本女子陸上で、実に64年ぶりのメダルをもたらしたのである。

 一方、松野はソウル五輪に女子1万メートルの日本代表として出場。現役引退後はタレント兼スポーツキャスターとして活動し、その後、政界に転身した。熊本市議を2期務めた後、熊本県議連ではトップ当選を果たし、現在は日本維新の会に所属する参議院議員として活動している。

 選挙戦では酷暑の中、走行距離400キロにわたる「全国マラソン行脚」が話題になったことがあり、現在もなお、松野とマラソンは切っても切れない間柄のようである。

(山川敦司)