中日時代の牛島和彦氏【写真提供:産経新聞社】

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牛島和彦氏は1982年、7勝17セーブで優勝に貢献…右肘靱帯を痛めるも、1か月で復帰

 元中日投手の牛島和彦氏(野球評論家)がプロで躍進したのは3年目の1982年だ。シーズン途中から先発に回った鈴木孝政投手に代わって抑えも務めるなど、オールリリーフで53登板、7勝4敗17セーブ、防御率1.40の成績を残し、リーグ優勝に貢献した。苦難の道ではあった。8月に右肘の靱帯を痛めて戦線離脱。約1か月後に復帰したが、実は「全治半年の診断を受けていた」という。「『優勝争いしているし、戻ってこい』と言われて無理したんです」と明かした。

 この年の牛島氏は開幕6戦目の4月11日の巨人戦(ナゴヤ球場)でプロ初セーブをマークしたが、当初は基本、中継ぎ役だった。状況が変化したのは6月。近藤貞雄監督と権藤博投手コーチは、リリーフ失敗もあったクローザーの鈴木を先発に配置転換し、フォークの切れ味が鋭くなった高卒3年目の牛島氏を新守護神に抜擢した。「僕も調子がよかったんでね。それでクローザーを『やってみろ』って言われたんですよね」。

 当時21歳の牛島氏は意気に感じて結果も出した。前半終了時点で6勝3敗12セーブ。巨人、広島と優勝を争うチームを支えた。だが、8月12日の阪神戦(ナゴヤ球場)で右肘を故障。「その前に腰を痛めてちょっと(登板)間隔があいていたんですよ。それで腰が楽になったなぁって思って腕を振ったら何かプチッて音がしたんです」。右肘の靱帯を痛めており、無念の離脱。新たな抑えは開幕直後の故障から8月に復帰した小松辰雄投手が務めた。

 牛島氏が1軍に戻ったのは9月9日の阪神戦(甲子園)、中継ぎで1イニングを投げて打者3人を無安打に封じた。怪我から約1か月でのことだったが、かなり無理していたという。「病院では全治半年って言われていたんですけど、治るのを待つなんて、そんなことを言っていられなかった。『優勝争いしているし、戻ってこい』と言われてね。痛み止めを飲んで、サポーターを巻いて投げていましたね。まぁ、そんな時代でしたよね」。

「今でいうとトミー・ジョン手術の対象になるような症状でした」

 そんな状況もあって中継ぎからの復帰となったが、9月下旬からは、小松とダブルストッパー体制。10月に4セーブをマークして優勝に貢献した。「そりゃあ、無理していましたから肘は痛かったですよ。痛かったけど、いろいろ工夫しながらね、肘の周りの筋肉を強くして、関節を抑え込むみたいなトレーニングをしたりしてね」。そのままの状態で西武との日本シリーズにも突入。2勝4敗で中日が敗れたが、牛島氏は4試合に登板した。

 3番手で登板の第3戦は2回無失点で勝利投手、第4戦ではセーブをマークした。「ラストゲームになった第6戦、ずっと痛み止めの薬を飲んでいたし、もう飲まなくてもいいかなと思って、飲まずに投げたんですよ。そしたら、めっちゃ肘が痛かったです。1点とられたんですよね(4番手で1回1失点)。それからまたトレーナーと相談しながら、肘や関節について勉強するようになりましたね」。

 結局、右肘痛は完治しなかったという。「治らなかったですね。3年目に肘を痛めてからは、ずーっと肘が痛かったです。痛くなかった時期はないです。でも、あの時、無理せずに治療して休ませても痛かったと思いますね。今でいうとトミー・ジョン手術の対象になるような症状でしたからね。まだロッテの村田(兆治)さんがトミー・ジョン手術を受ける前のこと。手術なんて考えられませんでしたしね」。

 右肘痛と闘うのは普通のこと。牛島氏はそんな状態で4年目の1983年に10勝8敗7セーブ、5年目の1984年には3勝6敗29セーブと成績をアップさせていった。「痛いけど、無理して投げないと、結果を残さないと駄目だったのでね」。リリーフ投手にできるだけ3連投をさせないとか、何もなくても疲労を考慮して休ませるのが当たり前の現在では考えられないことだが、そんな時代をも乗り越えて牛島氏は一流選手への階段を駆け上がっていった。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)