沖縄へ向かうフェリーの中で海を眺める秀俊さん(提供写真)

ツアーナース(旅行看護師)と呼ばれる看護師たちの存在をご存じでしょうか?

「最後の旅行を楽しみたい」「病気の母を、近くに呼び寄せたい」など、さまざまな依頼を受け、旅行や移動に付き添うのがその仕事です。

2023年2月の上旬に敗血症性ショックを起こし、朦朧とした意識の中で、「最後に家族と沖縄に行きたい」と言い出した稲本秀俊さん。そんな父の思いを叶えるため、三姉妹の次女、稲本愛里さんの奮闘は続きます(前編はこちら)。

父は旅を楽しもうとしていた

出発当日の朝、自宅に介護タクシーが到着した。ツアーナースの細山理恵看護師もそこから付き添う。タクシーの運転手も手伝って、車いすの秀俊さんをタクシーに乗せる。

「旅が始まっちゃえば、細山さんもいるし、なんとかなると思っていました。それまでの準備期間がとにかく大変だったので」

そう愛里さんは笑う。

介護タクシーで、自宅最寄りの新横浜の駅に無事到着した。沖縄への旅行は2月末。まだまだ寒さが厳しい季節だ。新幹線の出発時間までは温かい軽食を食べ、体を温かくして過ごした。

細山看護師の説明。

「車いすに乗っていらっしゃる方は、立って歩く人より目線が低い。大勢が行き交う駅などで車いすを押すときは、利用者の目線を考慮しながら、不安のないように注意を払います。また、稲本さんは移動中もずっと複数の点滴を使っている状態なので、それらの様子も随時観察しながら付き添います」

愛里さんは、そうした細山看護師の姿を見て、「とっても心強かった」と振り返る。

「介護タクシーを降りたら、“ああ、大丈夫だった”。新幹線に乗り込んだら。“よし、これも大丈夫だった”って一つ一つクリアしていく感じでした」(愛里さん)

そんな愛里さんをはっとさせたのが、新幹線の乗り換えのために降りた鹿児島駅での秀俊さんの一言だった。「ちょっとお土産売り場が見たい」と秀俊さんが言った。
 
「お父さんは旅を楽しもうとしている。一瞬一瞬を大切な思い出にしようとしているんだということを感じたんです」(愛里さん)

泣きながら3日間で準備をし、当日を迎えた。愛里さんは、どこかで旅全体をミッションのように感じていたのかもしれない。「でも、そうじゃないんだ。これは家族旅行なんだ。楽しんでこそ本当なんだ」。父親の一言がそんな当たり前のことを思い出させてくれた。

「楽しんでこそ家族旅行だ」

そんな思いを新たにしながら、愛里さんは、父たっての希望である沖縄旅行に寄り添った。

フェリーに乗って鹿児島から沖縄へ

2023年2月下旬、新横浜を出てから9時間後、一行は鹿児島県の鹿児島新港に到着した。新幹線が停まる鹿児島中央駅から車で数分の場所である。この短い距離もやはり介護タクシーを使った。

「鹿児島から沖縄の那覇まで、20時間以上の船旅です。途中、奄美大島や沖永良部島などに寄港しながらの旅なので、どうしても時間がかかるんです」(愛里さん)

船内で1泊するので、稲本家は個室を取ってある。ツアーナースの細山看護師については、すぐに駆けつけられる場所の部屋を愛里さんはキープしていた。


秀俊さんたち家族が宿泊したフェリーの客室(提供写真)

「父の車いすを押して、デッキを散策したり、家族みんなでレストランを利用したり。とても楽しい船旅だったのですが、船ってバリアフリーじゃないんですよね。病気のために痩せているけど、父はもともと体格のいい人で、結構体重があるんです。付き添いは全員女性ですし、私は妊娠中だし。車いすごと抱えて段差を乗り越えるのはとても大変」(愛里さん)

そこで細山看護師が機転を利かせた。

「レストランに数人の男性グループがいて、話を聞いていると、どうやら自衛隊員さんらしいということがわかった。思い切って声をかけてみました」(細山看護師)

「皆さん、車いすの移動を手伝ってくれませんか」

細山看護師の呼びかけに、大男たちがどやどやと集まってきた。

「大変ですね。任せてください」

さすがに自衛隊員だ。リーダー格の男性が指示を飛ばすと、それに従ってキビキビと車いすの移動などを手伝う。

愛里さんは懐かしそうに当時を振り返る。

「びっくりしました。だって、まさかそんなことをお願いするとは思っていませんでしたから。でも細山さん、すごい上手なんですよ。車いすの抱え方とか、ベッドへの移乗とか、その都度適切に指示するんです。自衛隊の皆さんも、了解! みたいな感じでその通りに動いてくれます。細山さんも、自衛隊の方々も、とても頼りになりました」

ツアーナースは旅の安全と、患者の無事を担保する大切な存在だ。細山看護師が患者である秀俊さんのケアに集中しているおかげで、家族は旅を楽しむことができる。

「細山さん、沈着冷静なんですよ。何が起きてもこの人がいれば大丈夫だなって思えた。私たちの見えないところで、父が寒そうにしていたらサッと毛布をかけてくれたり。おかげで私たち家族は旅に集中することができました」(愛里さん)

沖縄での最初の2日間

無事、沖縄に到着した一行は、予約していたホテルに向かった。そこは秀俊さんがまだ元気だった頃、夫婦でハワイ旅行をした際に宿泊したのと同じ系列のホテルだった。そのホスピタリティの素晴らしさに感動し、娘たちにも体験させたいと、父たっての希望だった。

「確かに素晴らしいホテルでした。ウェルカムドリンクがとても美味しくて、長旅で疲れていた父も、うまいうまいって飲んでいました。そしたらホテルの人がおかわりを持ってきてくれて(笑)」(愛里さん)

沖縄での4日間、秀俊さんの医療的なケアをするのは、現地の訪問看護師である。担当するのは国頭郡にある『ひまわり訪問看護ステーション』の代表豊里泰子看護師だ。

ツアーナースは医療保険がきかない自費サービスである。沖縄に滞在中の4日間は、ツアーナースの細山看護師ではなく、医療保険が使える訪問看護に切り替えれば、それだけ費用を抑えることができる。これは日本ツアーナースセンターからの提案だ。つまり、沖縄にいる4日間は、細山看護師はオフということである。本来は自由に過ごしていいのだが、細山看護師にそのつもりはなかった。

「結局、向こうにいる4日間もびっちりお世話になりました」(愛里さん)

もしかしたら沖縄から帰れないかもしれない

沖縄滞在中の稲本秀俊さんの医療的なケアを担当する豊里泰子看護師の話。

「沖縄にいる4日間だけ、というご依頼には当初戸惑いもあったのですが、診療情報提供書などの書類もあるし、なによりツアーナースの細山さんがいてくれるということで、安心してお受けすることにしました」

そんな豊里さんが印象に残っていることがある。

「たしか2日目のことだったと思うのだけど、私が稲本さんの尿パッドの取り替えをやっているときに、奥様が手伝ってくれようとしたんです。すると、稲本さんは、“プロに任せなさい”っておっしゃった。私たち看護師の仕事に対して気を使ってくれているんだなって感じましたね」

もうひとつ印象的だったのは、ホテルのテラスから、海を眺めている稲本さんの姿です。本当に幸せそうに、ずっと眺めていらっしゃった。家族と沖縄に来ていることを、噛み締めているような表情でした」(豊里さん)

沖縄にやってきたものの、海に行ったり、観光地巡りをしたりする体力は、秀俊さんには残っていなかった。それでも、ホテルのレストランに家族で行き、自分は少ししか食べられない中、娘や妻が楽しそうに食事をしている姿を、見つめていた。

愛里さんは、少しでも観光気分を盛り上げてもらおうと、ホテルで行われているフラダンスショーをスマホの動画で撮影して、それを見せたりした。

「細山さんには、向こうにいる間にも本当にお世話になりました。夜中も時々様子を見に来てくれるし、オムツ替えとかも、やってくれたんですよ」(愛里さん)

前半の2日間は何事もなく過ぎたのだが、後半に入ったくらいから、秀俊さんの容体に変化が現れ始めた。細山看護師の説明。

「尿の量も少なくなってきました。一時は血圧も50くらいになることもありました」

「もしかしたら帰ることができないかもしれない」。細山看護師は、秀俊さんがそのような状況であることを家族に伝えた。愛里さんは次のように語る。

「でも、沖縄で亡くなった場合、死亡診断書を書いてくれる医師がいません。訪問看護はお願いしたけど、お医者さんまでは探せてなかったんです」


このまま沖縄で最期を迎えることになるかもしれない(提供写真)

強がりな父の「帰る力」

細山看護師と、ひまわり訪問看護ステーションの豊里看護師が一肌脱ぐことになる。

「私がいつもお世話になっているクリニックの先生にお願いしてみました」(豊里看護師)

状況を説明すると、60代のその男性医師は「とにかく容体だけでも見てみましょう」と快諾してくれたという。付き添った家族で、沖縄で最期を迎える準備を始めるための話し合いもしていた。そうなれば、ホテルに滞在し続けることは予算的にも不可能だ。愛里さんはネットでウィークリーマンションを探し始めていたという。

滞在最終日、帰宅のための船や新幹線はすでに押さえてある。それを一旦キャンセルするべきか。判断は医師と、なにより秀俊さん本人に委ねられることになった。意識レベルが下がり、ずっと目を閉じているような状態の秀俊さんだったが、医師が訪ねてきたときだけは、少しだけ目を開いた。

「そういうときって、父は性格的に強がるんですよ。意識がぱっとして、普通に元気な感じで先生と話し始めました。その様子を見て先生も“これなら大丈夫”と言ってくれました。父もその言葉を聞いて自信が出てきたみたい」(愛里さん)

自宅にいる頃は、食欲がほとんどなかった秀俊さんだったが、沖縄に来てからは、沖縄で行きつけのお店のタコスやソーキそばなど、沖縄グルメに舌鼓をうった。短いけれどもそうした日々が「帰る力」に繋がったのかもしれない。

ジューシーのおにぎり

「これだったら帰れそうだ。だけど、一日でも早く帰ったほうがいい」

これが医師の判断だった。

帰る日の当日。フェリーの関係で、ホテルを出るのは朝の6時だった。その時間、ホテルのレストランはまだオープンしていない。

「後半の2日間滞在したのは、それまで家族で何度も泊まったことのあるホテルです。父はここの朝食が大好きでした。最後にそれが食べられないことが心残りだったようです」(愛里さん)

朝食を食べる時間がないことを出発の前日、ホテル側に伝えると、家族分の朝食をお弁当にして用意してくれていた。

「父の大好きなグアバジュースも入れておいてくれました」(愛里さん)

出発に合わせて、ひまわり訪問看護ステーションの豊里看護師も見送りに来た。

「私にとっても、すごくいい経験でした。どうしても見送りがしたかったし、渡したいものもあった」と豊里看護師は語る。

ホテルのスタッフに渡されたお弁当を携え、稲本家一行は介護タクシーに乗り込んだ。

「豊里さんとは、そこで一旦お別れしたんですよ。ところが、フェリー乗り場に到着したら、豊里さんが車で追いかけてきて、乗船ギリギリに、はいこれ、お土産って言って沖縄名物のジューシーおにぎりを届けてくれたんです」(愛里さん)

ジューシーとは沖縄の郷土料理だ。甘辛く味付けした混ぜご飯である。

「恩納村の宜野座商店っていうお店のジューシーがね、とびきり美味しいんですよ。どうしてもそれを届けたくて、開店時間を待って買ってからフェリー乗り場に行ったんです」(豊里看護師)

帰りのフェリーの中で、ホテルが用意してくれたお弁当と、豊里看護師が届けてくれたジューシーおにぎりを広げて、皆で食べた。秀俊さんも、少しずつだけど、食べることができた。

家族の献身が生んだ奇跡

自宅に帰り着いたのは、翌日の夜遅くだった。その13日後、稲本秀俊さんは53年の生涯に幕を閉じた。細山看護師は言う。

「診療情報には、手術や抗がん剤などいつ手術をし、いつから抗がん剤の治療を開始し、など多くの治療の経過がありました。秀俊さんとご家族は何度願い、何度苦しんで悲しんできたのだろうと。

秀俊さんに寄り添い、ご家族も支えたい気持ちがとても強くありました。秀俊さんが食べたいと言ったアメを沖縄中のスーパーに電話をかけて探す娘さんたち。長旅で疲れているのに、眠らず夫の秀俊さんの苦痛のある箇所をずっとさする奥様。体が辛い中でも、家族を気にかける秀俊さん。本当に素敵なご家族なんです。

ご自宅に無事戻ってきたときの達成感のような、安堵のような、秀俊さんの笑顔は今でも忘れられません。旅は戻ってくるものなのだと、秀俊さんに教えていただきました」

【2024年6月3日14時45分 追記】初出時、記述に不正確な部分がありましたので、一部を修正しました。

家族の献身的な姿が、多くの人の心を動かし、たくさんの奇跡を生んだ。父親との最後の旅行について語りながら、愛里さんは何度も涙を浮かべた。でもそれは、悲しい涙ではないように見えた。

豊里看護師と細山看護師、そして愛里さんは今でも連絡を取り合う仲だ。そんなかけがえのない関係も、秀俊さんは残した。やはり、この沖縄旅行は、家族に対する父親の最後のプレゼントだったのである。


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(末並 俊司 : ライター)