大卒ドラ2入団も“フォーム変えろ” 突きつけられた課題…苦心の末の「できません」
白武佳久氏は1年目のキャンプで「北別府みたいに投げろ」と命じられた
元広島投手で現在、広島スカウト統括部長を務める白武佳久氏は1982年ドラフト会議で2位指名されて入団した。プロ1年目、1983年の沖縄キャンプで、背番号18のルーキー右腕は「カープの18番」の大先輩でもある長谷川良平臨時コーチの指導を受け、スリークォーターからオーバースローへのフォーム改造を命じられたという。「『北別府(学投手)みたいに投げろ』って言われてやったんですけど……」。いきなり難題に直面した。
1983年当時の広島投手陣は前年に20勝をマークしたエース・北別府に、山根和夫、大野豊、川口和久、前年新人王の津田恒実、ベテランの池谷公二郎と実力者揃い。中継ぎにも古沢憲司、山本和男が控え、戦力は分厚く充実していた。投手王国のチームであることを覚悟していたとはいえ、ルーキーの白武氏にはやはり厳しい環境だった。だが、それよりもまず1月の合同自主トレでビビったという。
「(広島・廿日市市の)チチヤスのゴルフ場をいきなり2周走れって、自主トレから嘘だろって思いましたよ。そして広いところでは坂道ダッシュ。鬼軍曹の大下(剛史)さん(当時1軍守備走塁コーチ)が立っていて、『おどりゃぁ』とか言われて怖かったです。1日やったら、もう歩けないくらいだった。新人はみんなヘロヘロ。でも他の人たちは普通にやっているんですよ。ウワー、これはすごいところに入ったと思いましたね」
それでも白武氏は必死に食らいつき、1軍キャンプメンバーに入った。そこにやってきたのが臨時コーチのレジェンドOB、長谷川氏だ。身長167センチで、現役時代は小さな大投手と呼ばれ、1955年に30勝で最多勝に輝いた通算197勝右腕。引退後は1965年から3シーズン広島監督も務めた。白武氏にとっては背番号18の大先輩でもある。その大御所に投球をチェックしてもらった上で言われたのが「北別府みたいに投げろ」だった。
フォームは会得できず…レジェンドOBに「できません」と伝えた
「あの頃はみんないい投げ方をしていたんですよ。でも僕はちょっと邪道な投げ方をしていたんでね。スリークォーターで斜めから投げていく、体がちょっと横振りでね、コントロールが悪かったんですよ。だから、北別府さんみたいに上からきれいにかぶせて投げるようにって言われたんだと思います」。白武氏は“長谷川指令”に「ハイ」と返事をしてフォーム改造に取り組んだ。だが、うまくいかなかったという。
「自分はシュートピッチャーで、上からシュートなんてよう投げられんかったんです。スライダーもそう。自分の持ち球があるじゃないですか。それを生かすためには、北別府さんみたいな投げ方では無理だったんですよ」。フォーム改造に取り組んで1週間ほど経った時、長谷川氏に「できません」とはっきり伝えたという。「『お前は反逆1号じゃ』って言われましたけどね。でも、そんなに怒っていなかった。『お前のやり方でやれ』みたいに最後は言ってくれました」。
フォームを元に戻した白武氏は紅白戦などで結果も出した。「あれで駄目だったら、また変えろって言われたかもしれなかったですけどね」。とはいえ長谷川氏に指摘されたことで、自分の悪いところも再確認できた形にもなった。「その後も長谷川さんには、よく話をしてもらったんですよ」。投手王国の中で生き残るために自身の持ち味を大切にした白武氏にとって、いきなりのフォーム改造指令はプロ1年目の忘れられない思い出にもなっている。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)