安平光佑【写真:Getty Images】

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「天才司令塔」にして「ファンタジスタ」とも呼ばれる安平光佑

 パリ五輪に挑む日本ハンドボール界に、新しいスターが誕生した。88年ソウル大会以来36年ぶりに予選を突破して五輪に臨む男子日本代表が10日、強化合宿中の東京・北区の味の素ナショナルトレーニングセンターで練習を公開。「天才司令塔」にして「ファンタジスタ」とも呼ばれる安平光佑(23=RKバルダル)に、ハンドボールでは異例の多くのメディアが集まった。(文=荻島 弘一)

 控室に収まらないほどの報道陣の数だった。テレビや新聞など40社から70人以上。人気競技なら珍しくもないが、普段はこの半分も集まらないハンドボールでは異常事態といえた。「五輪効果」があるとはいえ、圧倒的に注目されたのは欧州でプレーする若き司令塔の安平。コートサイドに並んだテレビカメラ12台とカメラマンの望遠レンズが、その動きを追いかけた。通常なら練習後は選手の囲み取材だけだが、取材希望者の多さに急きょ部屋を用意して会見まで行われた。

 昨年10月、代表経験わずか2試合で臨んだパリ五輪アジア予選で、チームを36年ぶりの五輪予選突破に導いた。攻撃のリーダーとして毎試合前にミーティングを行い、先輩たちに細かな動きを指示。アシスト、ゴールと大車輪で活躍した。長く日本代表の司令塔を務めてきた東江雄斗主将(30)も「安平がいなかったら、五輪出場は難しかった」と話したほど、多くの選手がMVPに安平の名を挙げていた。

 もっとも、五輪出場権獲得後は開催地のカタールから帰国せずにリーグ戦の行われている北マケドニアに直帰。凱旋会見も不在だった。準優勝した1月のアジア選手権後も大会中の負傷もあって帰国した代表チームには帯同せず。それだけに、多くの報道陣が「未知のエース」に殺到したのだ。

 中学生時代から「将来の日本のエース」として注目された安平は、富山・氷見高の主将として高校3冠(総体、選抜、国体)を獲得。「飛び級」で世代別代表でも活躍し、日体大1年からはフランスやドイツでも短期間プレーした。22年に日体大を3年で中退し、ポーランドの強豪プウォツク入り。日本人として初めて欧州チャンピオンズリーグ(CL)に出場し、ベスト8入りにも貢献した。

 昨季、北マケドニアのRKバルダルに移籍した。ハンドボール強国の旧ユーゴから分かれた同国もハンドボールが盛んで、RKバルダルはバルセロナやパリSGなどを下して16-17、18-19年と2度欧州CL優勝した強豪。安平はそんなチームの司令塔として活躍している。

テレビやSNSよりも「プレーでメジャーにしたい」 言葉に宿る強烈な自信

 コートを俯瞰でみているかのように自在にパスを操り、自ら切り込んでゴールも狙う。172センチの身長は2メートルが珍しくない世界では小柄だが「小さいことは武器になる」と胸を張る。五輪出場を決めたアジア予選決勝のバーレーン戦では、利き手の右でシュートフェイントをかけながら相手の脇の下をすりぬけて逆手の左でシュートを決めた。そんな異次元のプレーで大柄な相手を翻弄してみせる。

 23歳ながら圧倒的な実績と経験を持ち、見るものを魅了する安平が目指すのは、ハンドボールの「メジャー化」だ。「日本ではマイナーですけど、欧州ではサッカーと並ぶ人気。パリ五輪で、ハンドボールをもっと知ってほしい」と話した。

 これまでもテレビ番組で人気者になった宮崎大輔や、TikTokで700万人以上のフォロワーを持つ土井レミイ杏利ら「メジャー化」へ奮闘した選手はいる。ともに海外でプレーし、日本代表でも活躍しながらも、認知度アップにはテレビやSNSを利用した。ところが、安平は少し違う。「プレーでメジャーにしたい」。自身のプレーに圧倒的な自信を持つからこその言葉。1月の能登半島地震の際、富山県で最も被害が大きかった故郷の氷見市に向けて「自分のプレーで元気を」と言ってのけた。

 パリ五輪では今年2月に日本代表監督を退任したダグル・シグルドソン氏率いるクロアチアと初戦であたり、ドイツ、スペイン、スロベニア、スウェーデンとベスト8進出を争う。いずれも強豪だが、安平は「目標は2勝」と、過去最高の9位を上回る1次リーグ突破を視野に言った。淡々と話しながらも、言葉には強烈な自信が宿る。

 日本ハンドボールのステージを上げ、代表を五輪に導いた安平は「自分の役割は味方を生かしてゲームをコントロールすること」と話す。かつて「絶対に超えられない壁」と思われていた欧州勢に対しても臆することはない。12日までの合宿を終えた後は、マケドニアリーグ参戦のため欧州に戻る。「五輪は夢だった舞台。全力で取り組む」と大勢集まった報道陣の前で活躍を誓った。

(荻島 弘一 / Hirokazu Ogishima)

荻島 弘一
1960年生まれ。大学卒業後、日刊スポーツ新聞社に入社。スポーツ部記者としてサッカーや水泳、柔道など五輪競技を担当。同部デスク、出版社編集長を経て、06年から編集委員として現場に復帰する。山下・斉藤時代の柔道から五輪新競技のブレイキンまで、昭和、平成、令和と長年に渡って幅広くスポーツの現場を取材した。