「これで稼げ」生活費捻出の“丼飯係”で思わぬ効果 毎朝600人分…磨きかかった武器
白武佳久氏は日体大に特待生で進学…寮の食堂でアルバイトした
広島スカウト統括部長の白武佳久氏(元広島、ロッテ投手)は長崎・佐世保工時代に夏の甲子園を経験し、授業料免除の特待生で日本体育大学に進学した。1年春からマウンドに上がり、勝ち星もマークしたが、その裏で1年時に毎朝必死に取り組んでいたのが、大学寮の食堂でのアルバイトだった。寮生600人分のごはんを、スピーディーに丼によそっていく仕事。生活費を稼ぐためだったが「あれで手首が強くなったんじゃないかと思う」と思わぬ効果も口にした。
高校3年、1978年の夏、白武氏は佐世保工のエースとして甲子園のマウンドに上がったが、初戦敗退で終わった。2回戦で中京(愛知)に1-6。長崎大会では完封ラッシュだったが、大舞台では10安打を浴びた。「試合が大会7日目になって、1週間だれてしまった。旅館での生活で、練習も今までとは違ってちょっとの時間しかない。調整不足でした。肩がスカスカで逆に軽すぎて……。それにやっぱり田舎もんですよね。緊張しました」。
本来の力を発揮できなかった。「試合が始まるまでは長かったけど、試合はあっという間に終わりましたね」。でも甲子園を経験できたのはいい思い出だ。「みんなが打つようになったんですよ。最初は僕が4番だったけど、結局、8番とか7番。みんなのおかげです。ただねぇ、しごきに耐えられなくてやめていった中にすごい野手もいたんです。あいつがいればもっと強かったと思う。バレー部に行ってしまったんですけどね」。
甲子園に出場したことにより、特待生で日体大に進学もできた。「プロはホークスのスカウトらしき人が来ていましたが、ドラフトにはかからなかったと思います。上には上の選手がいるってこともわかりましたしね。大学も最初は行きたいとは思っていなかった。お金もないしね。そしたら日体大の特待の話がきて、生活費も兄貴が援助するぞって言ってくれて、それなら行こうかとなったんです。グラブとかも兄貴に買ってもらいました」。
大学2年途中まで続けた丼飯係…リーグ戦には1年春から登板
こうして日体大での寮生活がスタートしたが「大学は高校の比じゃないくらい厳しかった」という。「朝の点呼から夜寝るまで、私生活から、野球から全部きっちりでした。朝も掃除、夜も掃除とかね。毎日やるからきれいなんですけど、絶対するんですよ……」。そんな中、白武氏は学生寮の食堂で毎朝6時過ぎから1時間半くらいのアルバイトをしていたという。「野球部の監督に自分の小遣いはこれで稼げっていわれた」。ひたすら丼にご飯をよそう仕事だった。
「寮にはラグビーやサッカー、ハンドボールなど全部が集まっていて600人。僕はその600人分の丼飯を準備する係だった。大きな釜が6つくらいあって、それを何回もひっくり返して『どれくらいですか』って聞いて。山盛りって言う人もいるのでね。慣れるまで大変だったけど、時給は1000円で、1か月4、5万にはなったし、あれで、手首が強くなったんじゃないかというのもあるんですよ。僕はシュートピッチャーだったんでね」。
そんなアルバイト効果もあってか首都大学リーグで日体大1年春から登板。当時は原辰徳内野手(元巨人)、津末英明内野手(元日本ハム、巨人)、井辺康二投手(元ロッテ)らを擁する東海大が断然強く「1年春は東海大には勝てなかったけど、それ以外は全部勝ったと思います」。丼飯係は2年途中までで“卒業”。「その後は大学施設のカギを閉める管理学生のアルバイトをしました」という白武氏はこの大学時代に、プロ注目投手に成長していくことになる。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)