広島発祥の「お好みソース」はなぜ全国制覇できたのか…後発のオタフクソースが採用した「驚きの経営手法」
オタフクソース株式会社は、お好み焼き用の「お好みソース」を主力商品とする食品メーカーである。本社と主力工場は広島市にある。現在では、お好みソースだけではなく、ウスターソースやとんかつソースなども含めたソース類全体の国内市場のトップメーカーであり、グループ全体での売り上げは2023年9月決算で303億円である。
現在のオタフクソースは、「お好みソース」にとどまらない各種のソースやタレなどを、日本国内、さらには海外の飲食店向け、そして家庭向けに製造し、販売することで業容を拡大している。この展開を支えているのが、「お好みソース」を中心に、「たちまちうまい酢」「チキン南蛮のたれ」「塩焼そばソース」などの新しい調味料を、変化のやまない食のトレンドを踏まえて次々と投入していく、ユニークな商品開発の仕組みである。
■創業100年の老舗企業だが、ソース作りは戦後から
オタフクソースがソースの製造を開始したのは1950年と、他の大手ソース・メーカーに比べれば後発であった。地方の後発メーカーが、なぜ業界トップの企業に成長できたのか。それは他社にないイノベーションの仕組みを持っていたからだといえる。今回は同社のイノベーションの手法について概説する。
オタフクソースの歩みは、今から100年ほど前の1922年に、佐々木清一氏が広島市で佐々木商店を開業したことからはじまる。開業当初の佐々木商店は、醤油類の卸と酒の小売を営む商店だった。その後、醸造酢の製造に乗り出し、第2次世界大戦後の1950年には新たにソースの製造と販売をはじめる。原爆投下により焼け野原となった広島の街が復興していく日々のなかでの、新しい挑戦だった。
広島県民のソウルフードといわれ、現在ではグローバルにも注目される広島お好み焼きが広まっていったのも、第2次世界大戦後の広島の街の復興過程においてだった。
■後発ゆえのマーケティングの壁
ソースの製造と販売を開始した1950年当時の佐々木商店は、全国はもとより、当時の広島においても後発のソース・メーカーだった。ウスターソースの有力メーカーは、第2次世界大戦以前から全国各地に存在していたし、広島にも戦後に次々と生まれた街のお好み焼き店にソースを提供するメーカーはすでにいくつもあった。そのために佐々木商店のソース製造は、マーケティング上の壁に直面する。
佐々木商店のソースは、すでに先発メーカーと取引していた小売店や問屋には取り扱ってもらえなかった。これではいかに良質なソースをつくっても、その先にいる消費者や飲食店に届かない。ソースの製造事業者にとっては致命的な事態である。
この限界を佐々木商店はいかに突破していったか。そこには、現在のオタフクソースのユニークなマーケティングにつながる、ある行動があった。
■余儀なく始めた「直接販売」で得られたヒント
このとき佐々木商店は、メーカー然とした姿勢に終始することなく、問屋や小売店を介さない営業に乗り出した。総出を挙げて飲食店を訪問し、営業を行い、自社のソースを直接納品することに努めたのである。バイタリティに富んだ広島の街の商店らしい行動だった。
この当時、広島お好み焼き、そしてその前身となった一銭洋食に使われていたのは、明治時代に日本に入ってきたウスターソースだった。現在のような少し濃度のあるお好み焼き用ソースは、業務用にも家庭用にも販売されていなかった。そうしたなかで直接販売に乗り出すうち、街のお好み焼き店から「ウスターソースは、鉄板に垂れ落ちて焦げ付いてしまう」「ケチャップを混ぜてお店独自の味を作っている」といった情報をキャッチする。
■粘りや風味のある独自のソースを開発
直接販売は一般に、時間や人手を要する。しかしその一方で、多くの人に直接会い、生の声を聞けるというメリットがある。この声に耳を傾け、佐々木商店は飲食店に代わって、お好み焼きに合う粘りや風味のあるソースを、新たにつくってみることにした。こうして1952年に生まれたのが、「お好みソース」である。
「お好みソース」は、お好み焼きを提供する街の飲食店のあいだで、店で調味料を混ぜ合わせる時間や人手が省け、味もよいと人気を博す。その後、他社とは違う独自のソースは、小売店や問屋にも取り扱ってもらえるようになり、家庭でもプロの味が気楽に楽しめると、市場も広がっていく。
■先行したニーズを抱える「リード・ユーザー」
現在でもオタフクソースの営業スタッフは、日本各地において街で評判の人気店を見つけては、新たな訪問することを絶やさない。そして、そこで使われているソースやタレなどについての教えを請い、オタフクソースの工場で特注品として製造することの提案が、業務のひとつとなっている。
このオタフクソースからの提案は、街の飲食店にとってもメリットがある。多忙な人気店にとっては、店で使うこだわりのソースやタレなどを特注品として製造してもらえば、店舗で混ぜ合わせる時間や人手などを削減でき、生産性が向上するからである。
これらの街の人気店は、一般のユーザーよりも先行したニーズを抱える「リード・ユーザー」だといえる。トレンドの変化をとらえた新商品の開発に日常的に取り組んでいるのは、製造企業だけではない。その利用者や使い手のなかにも、必要に迫られつつ、利用している商品の改良や改善や新しい組み合わせに創意工夫を重ねる人たちがいる。こうしたユーザーがリード・ユーザーであり、このリード・ユーザーを活用したイノベーションをユーザー・イノベーションという。
ユーザー・イノベーションは、米国のマサチューセッツ工科大学のエリック・フォン・ヒッペル教授によって提唱された商品開発の手法である。日本でも、ユーザー・イノベーションの認知度は少しずつ高まってきてはいるものの、実際にユーザー・イノベーションに取り組む企業は、まだ少数派だという。研究所や開発スタッフを社内に擁する大手企業などには、商品開発は社内で行うものという思い込みが強いためだろう。
オタフクソースは、ソース製造に乗り出した戦後の広島の街で、後発メーカーとしてのマーケティングの壁に直面したことから、期せずして商品開発をめぐるこの思い込みを脱することができた。そして、後発メーカーとして抱えていた商品開発における競争上の不利を、克服していくのである。
■営業スタッフが街の人気店に飛び込み訪問
オタフクソースの商品開発の流れは、営業スタッフによる街の人気店への飛び込み訪問からはじまる。営業スタッフは、日々担当エリアの人気店の情報にアンテナを張り、見つけた飲食店を訪問しては、サンプルなどを提供しながら、要望通りのソースやタレなどを特注品としてオタフクソースの工場で製造できること、そしてそのメリットなどを説く。
オタフクソースとしては、こうした特注品をつくるだけでは、自社の利益への貢献は見込めない。いかに人気店とはいえ、一飲食店のための生産では、工場での生産のメリットにつながる規模には達しない。
だが、オタフクソースは、そこから独自のアレンジを加えた業務用、さらにはプロの味を家庭でも楽しめるソースやタレなどをつくり、広く販売していくことができる。また求められた味を作る過程が営業や試作開発のスキルの向上にもつながるなど、将来的な売り上げにつながるような社員のレベルアップにも寄与している。
こうしてオタフクソースは、変化のやむことのない食のトレンドをとらえた商品を次々に投入することに成功してきた。自社のソースを小売店や問屋に取り扱ってもらえず、仕方なく始めた行動から生まれた独自のユーザー・イノベーション的な開発の仕組みが、今もオタフクソースの成長を支えている。
■トレンドを先取りするため「ハイブリッド化」を進行
後発メーカーは、商品開発に割ける社内リソースが先発メーカーには劣る。そのなかで、市場のトレンドの変化をとらえて矢継ぎ早に画期的な新商品を投入していく開発競争に勝つことは難しい。オタフクソースが確立している街の人気店との協業は、この後発メーカーとしての不利を克服するユニークな商品開発の仕組みである。
もっとも、このオタフクソースの開発の仕組みには限界もある。街の飲食店が食のトレンドをとらえて新しいソースやタレなどを開発するのを待って、そこから協業を通じて新商品を開発していくのでは、トレンドに乗り遅れないようにはできても、トレンドを先取りすることはできない。つまり、食のトレンドを先取りするような、さらにイノベーティブな製品の投入ができないのである。
そこでさらに現在のオタフクソースでは、お客様相談室に寄せられる声や、食のトレンドデータなどを解析して新商品の開発のアイデアをつかむ体制を整えている。そしてこのデータ解析と、独自に培ってきたユーザー・イノベーション型の開発の仕組みを組み合わせるハイブリッド化を試みている。
食のトレンドをとらえようと、創意工夫を重ねる街の人気店と手を組むことから生まれた開発のプロセス。後発メーカーのハンディキャップを乗り越えようとするなかから生まれたユーザー・イノベーション型の開発の仕組みを、オタフクソースはより一層進化させようとしている。
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栗木 契(くりき・けい)
神戸大学大学院経営学研究科教授
1966年、米・フィラデルフィア生まれ。97年神戸大学大学院経営学研究科博士課程修了。博士(商学)。2012年より神戸大学大学院経営学研究科教授。専門はマーケティング戦略。著書に『明日は、ビジョンで拓かれる』『マーケティング・リフレーミング』(ともに共編著)、『マーケティング・コンセプトを問い直す』などがある。
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(神戸大学大学院経営学研究科教授 栗木 契)