中国思想は日本にどこまで受容されているのか。気鋭の論客たちが徹底討議します(写真:ふじよ/PIXTA)

なぜ「無敵の人」が増え続けるのか。なぜ保守と革新は争うのか。このたび上梓された大場一央氏の『武器としての「中国思想」』では、私たちの日常で起こっている出来事や、現代社会のホットな話題を切り口に、わかりやすく中国思想を解説している。
中野剛志(評論家)、佐藤健志(評論家・作家)、施光恒(九州大学大学院教授)、古川雄嗣(北海道教育大学旭川校准教授)など、気鋭の論客の各氏が読み解き、議論する「令和の新教養」シリーズに、今回は大場一央氏も参加し、同書をめぐって徹底討議。今回はその後編をお届けする。(前編はこちら)

改革がうまくいくための条件

中野:中国史を見ると、成功する改革や変法もありますが、大半が失敗に終わっています。この点について、施さんはいかがお考えですか。


:おっしゃるように、改革や変法って、だいたい失敗するんですよね。まるで、生物の変異みたいな感じで、いろんな試みをして、たまたま適応したものが生き残る。どういうものが生き残るかの予想は非常に難しい。

ただ、よき変異を生み出しやすい条件については、いくらか語ることはできると思います。

たとえば、『武器としての「中国思想」』でも強調されているように、多数の中産階級や中間層の人々を元気にしておくこと。そうであれば、いろいろな試行錯誤が行われ、百家争鳴となり、さまざまなアイデアが多数出てくる可能性は高いですよね。いろんな試みが行われれば、いいものが含まれている可能性も高い。

つまり、特定の改革や変法の案がうまくいくかどうかの予想は困難だけれども、多様な角度から多数の案が活発に出てくる条件をつくることは、できると思います。

大場さんは「中間層を元気にする」必要性について、どのような理屈で正当化されるとお考えでしょうか。

大場:はい。一番端的な例は、北宋の士大夫の社会です。そこでは、士大夫たちが科挙に合格して、みんな横並びで同じ教育レベルで自由に議論をするんです。みんなで「俺の考える最強」の注釈をつけて、自由闊達に儒教を議論する。そこから出てくる政策が北宋の中で積み重ねられていって、「太常因革礼」みたいなモデルが成立していく。士大夫に言論の場を与えたことで、さまざまな可能性が出てきたんです。


大場 一央(おおば かずお)/1979年、札幌市生まれ。早稲田大学教育学部教育学科教育学専修卒業。早稲田大学大学院文学研究科東洋哲学専攻博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。現在、早稲田大学、明治大学、国士舘大学などで非常勤講師を務める。専門は王陽明研究を中心とする中国近世思想、水戸学研究を中心とする日本近世思想。著書に『心即理―王陽明前期思想の研究』(汲古書院)、『近代日本の学術と陽明学』(共著、長久出版社)、『武器としての「中国思想」』(東洋経済新報社)などがある(写真:筆者提供)

それに対して「もっと統制すべきだ」と言っている新法党も、一君万民で均質化された言論空間の中で育まれていた。彼らもたとえば「通貨は瓦に墨で『これは金だ』って書けばいい」という自由な議論をポンポン入れている。これも自由で均質な環境で、経済的にも教養的にも信頼関係がある集団の中での議論ですね。

王安石の場合は、それをさらに国民全体に広げようとした新法改革です。中間層化した中国人民の中から豊かなものが出てくるだろうと。でも、これは政治で指示するものじゃなくて、社会を保全してやることで自然と生まれるんです。中間層の経済状況が良くなって、自然と新しいイノベーションが出てくれば、それは国富に転用できる。儒学者や儒教の中には、そういう意識が明確にあったと思いますね。

:なるほど、ありがとうございます。非常にわかりやすかったです。

歴史は思想の屍(しかばね)で築かれる

佐藤:中間層が分厚く、経済的に安定した社会なら、変法もうまくいく可能性が確かに高まるでしょう。ヨーロッパのルネサンスにしても、東方貿易による経済的発展が背景にあった。「人々を豊かにすることこそ、王道(偉大な政治)の始まり」と主張したのは孟子ですが、人間、生活にゆとりがあると、自由な発想をする余裕が生まれるんですね。ついでに社会が繁栄していれば、改革に伴うコストやリスクも受け入れやすい。

ところがここでも、自由と秩序のバランスの問題が出てくる。遅かれ早かれ、現在のシステムを全否定するような議論が持ち上がってくるんですよ。ヨーロッパでも、16世紀末あたりには「ルネサンスからの退却」と言われる思想統制が起こりました。コペルニクスとガリレオを比べると、自由に言論を展開できたのは90年ほど先に生まれたコペルニクスのほうで、ガリレオは異端審問にかけられています。

その意味で、後世に最も大きな禍根を残すシステムとは、じつは現実にうまく適応し、成功を収めたシステムではないのか。成功したからには、社会に与えた影響も大きい。けれども完璧なシステムなど存在しませんので、時代が経つにつれ、そのダークサイド、つまり弊害も大きくなる。そして最後には「あれはひどいシステムだった」と幻滅を引き起こすわけです。

近代日本がいい例でしょう。戦前の富国強兵路線は、ある段階まで見事に成功しました。明治維新から約50年で、わが国は世界の5大国の一員となったのです。けれども結局は敗戦に行き着き、その後はひたすら否定の対象。

戦後の日本的経営にしたって、非常に高く評価されたあと、「個人を企業に縛りつけるもの」と叩かれだした。歴史は結局、累々たる思想の屍(しかばね)によって築かれるものなのでしょう。

中野:中国とか朝鮮の儒教の文化について考えると、特に北宋の士大夫っていうのが気になりますね。

最近、中国の戦国時代を一国ずつ解説するドキュメンタリーを見たのですが、魏の国から知識人(士人)がいっぱい出てくるっていう描写があったんですよ。魏が学問の中心になって、いろんな士人が集まっていました。彼らは貴族でもなく、王侯貴族でもない、知識人階級で、諸子百家のようなものですよね。商鞅のように宰相になる人間も出てくる。でも、彼らには国への忠誠がなくて、自分の才能を一番買ってくれる人に忠誠を尽くすタイプでした。

中野:このタイプの知識人階級って、近代西洋でもヨーゼフ・シュンペーターとか、カール・マンハイムとか、そういう人たちが描いた知識人階級に似ていますね。無責任に理想を言ったり、嫉妬深くて、人の足を引っ張ったり、陰口を言ったりしてばかり。そういういやらしい連中が知識人にはたくさんいる。フランス革命の前後の知識人たちもそうでした。日本でも、80年代のポストモダンみたいに、新奇なアイデアをバンバン出して、得意になっているといったように(笑)。

でも日本の場合は、同じ儒学を修めた人たちが、改革や維新、近代化に動員されるけど、実務家としての身分があるんですよ。三国志を読むと、劉備に諸葛孔明を紹介したのは徐庶といったように、知識人の間のネットワークがある。でも日本の歴史では、そういう議論を商売にする知識人の階層というものはあまりない感じがします。

中国に詳しい人に聞いたことがあるんですが、中国では全人代で最終的な議論が決まるまでけっこう自由闊達な議論をやってるらしいです。百家争鳴でレベルの高い議論をやってるのだそうです。他方、日本の議論は、同じような意見ばかりで、異論を嫌う(笑)。同じアジアで儒教だと言っても、日本とはけっこう違うんですよね。

大場:まさにおっしゃるとおりで、日本だと中野先生が挙げた知識人の代表格は荻生徂徠ですね。

中野:なるほど、徂徠ぐらいですか。

大場:だから、徂徠学派が一世風靡した後に来るのは、一斉反発ですよね。あんな、実務経験もない、死生観もないくせに、大風呂敷ばっかり広げやがってと。だから戦後になって、丸山眞男がインテリゲンチャ、インテリゲンチャと言って徂徠が大好きなのは……。

中野:わかりやすい(笑)。

佐藤:知識人が妙な理想を説いたりせず、黙々と実務をこなすくらいのほうが、社会は安定するんじゃないですかね。あるアニメ映画の台詞にならえば「革命はいつもインテリが始めるが、夢みたいな目標でやるから、いつも過激なことしかやらない」というやつで。

中野:そうなんですよ。だから、そこがおもしろいところでもある。古川さん、いかが思われますか。

「個」や「組織」の良し悪しを決めるもの

古川:話が戻りますが、施さんが前編でおっしゃった、「個の確立」という言葉についてです。施さんは、これは新自由主義的な意味に誤解されるおそれがあるのではないかと指摘されました。たしかにそのとおりですが、私は逆に、大場さんがあえてこういう表現をされたことの積極的な意味を考えたいと思います。


古川 雄嗣(ふるかわ ゆうじ)/教育学者、北海道教育大学旭川校准教授。1978年、三重県生まれ。京都大学文学部および教育学部卒業。同大学大学院教育学研究科博士後期課程修了。博士(教育学)。専門は、教育哲学、道徳教育。著書に『偶然と運命――九鬼周造の倫理学』(ナカニシヤ出版、2015年)、『大人の道徳:西洋近代思想を問い直す』(東洋経済新報社、2018年)、共編著に『反「大学改革」論――若手からの問題提起』(ナカニシヤ出版、2017年)がある(写真:古川雄嗣)

というのは、施さんもよく読めば書いてあるとおっしゃったとおり、大場さんがおっしゃりたいことは、個を確立するためには共同体の支えが必要だという逆説ですよね。安定した共同体があり、個人はその共同体の人間関係の網の目の中に生まれ落ちて、そこで自分のさまざまな立場や役割になりきることで、はじめて強い個として確立される。大場さんがあえて「個の確立」という表現をされたことは、共同体から解放されることによって個が確立できると考えてきた戦後日本の「個」の理念を問い直すきっかけになるという意味で、やはり大事なことではないかと思います。

しかし、個と集団との関係の問題は、けっこう難しいですよね。佐藤さんが前編でおっしゃった「合成の誤謬」の話とも重なりますが、集団の規範に従うことによってこそ個が確立されるのだとしても、では、もしその集団の規範そのものが間違っていたらどうするのか。たとえば、財務省に入ったら財務省の規範に従わなきゃいけないのかという話にもなります。

古川:儒教と正反対の個人主義・普遍主義の道徳の典型が、カントの道徳論ですが、それがいびつだということでよく槍玉にあげられるのが、うそをめぐる問題です。殺人者に追われている友人を助けるためにうそをつくことが許されるかという問いに対して、カントはダメだと言う。うそをついてはいけないというのは、個人が絶対的に従うべき普遍的な命法だから、と。孔子だったら、そんな馬鹿な話があるかと言うでしょう。

しかし、他方で、『論語』にはこういう話もあります。盗みをはたらいた父親を、子どもが告発した。それに対して孔子は、そんなことをしてはダメだという。「父は子のために隠し、子は父のために隠す」べきである、と。そう言われると、それはそれでどうなんだろうと思うわけですね。そういう場合は、むしろカント的に、共同体の倫理に逆らって、個人の道徳を貫くべきではないかとも思うわけです。

そう考えると、集団の規範と個人の道徳というのは、単純な二者択一の問題ではなく、本当に大事なのは、両者のいわば弁証法的なダイナミズムのようなものではないかと思います。

中野:また中国のドキュメンタリーの話になりますが、そこでは、燕の国はいい人たちがいっぱいいる国で、代々の燕の王様が王道を目指して頑張る姿が描かれていました。だけど、燕も滅ぼされます。燕については、「戦国時代に王道は通じなかったのである」といった趣旨のナレーションが入っていましたね。

佐藤:「王道とは何か」という問いの答えにすら、王道は存在しない、すべては状況次第である。悪い時代に王道を貫こうとするなど、自滅に至る最も効率的な方法だ!

中野:だから、人間的にはまったく尊敬できないような総理大臣が日本を豊かにした可能性だってあるし、逆に尊敬できる首相がダメにすることもある。

「個の確立」とは演技である


佐藤 健志(さとう けんじ)/評論家・作家。1966年、東京都生まれ。東京大学教養学部卒業。1990年代以来、多角的な視点に基づく独自の評論活動を展開。『感染の令和』(KKベストセラーズ)、『平和主義は貧困への道』(同)、『新訳 フランス革命の省察』(PHP研究所)をはじめ、著書・訳書多数。さらに2019年より、経営科学出版でオンライン講座を配信。『痛快! 戦後ニッポンの正体』全3巻、『佐藤健志のニッポン崩壊の研究』全3巻を経て、現在『佐藤健志の2025ニッポン終焉 新自由主義と主権喪失からの脱却』全3巻が制作されている(写真:佐藤健志) 

佐藤:この本で面白いと思ったのは、「個の確立」を目指すうえで、大場さんがずっと「なりきる」という表現を使っていることです。「なる」ではなく「なりきる」。ここには「本当のところ、確立された個になったわけではないが、なった振りをする」というニュアンスがある。つまり「なりきる」とは演じることなんです。

演技とは「本物の印象を与える見せかけ」をつくりだすことです。よく「役になりきる」と言いますが、誰であれ、ハムレットやジェリエットに文字どおり変身できるはずがない。言い換えれば、「本当はなれない」ことが大前提になります。それでも心を込めて技巧をこらせば、ハムレットやジュリエットの印象を的確に与えることはできる。なれないものになりきるというパラドックスが成り立つのです。

この座談会の前編で、「自分を予備に置く」という話が出ましたが、舞台に立つとき、役者は必ず本当の自分を予備に置いています。ならば個の確立とは、「集団の一員としての自分」や「集団から離れた自分」を確固として演じきることではないのか。つまり思想とは、より良い自分を演じるための指針なんだと思います。

古川:ハーバード大学のマイケル・ピュエットという中国哲学の研究者が、似たようなことを言っていますね。彼は礼の本質は「かのように」であると言っています。実は孔子自身がそう言っているふしがあって、たとえば「祀ること在(いま)すがごとく」せよ、と。祖霊を祀る儀礼というのは、あたかも祖霊がそこにいる「かのように」振る舞うことが大事なのだと言っているんです。

これはほとんどプラグマティズムの考え方で、実際に祖霊がそこにいるかどうかということが問題であるのではない。そうではなく、あたかもそこにいる「かのように」振る舞うことで、家という共同体が作られ、その共同体における自己が作られていくという、社会的な効用こそが礼の本質なのだということです。

これはまさに演技ですよね。しかも、「かのように」振る舞うということは、一方に「本当は違うかもしれない」という冷めた視点をもっていることにもなります。つまり、今ある規範に対して、距離を取ることができるわけです。それが、場合によっては規範そのものを修正していく契機にもなるのではないかと思います。

大場:中国では朱子学が隆盛すると「道学者先生」と呼ばれる四角四面な儒学者が登場しました。日本にも「道学者先生」は現れますが「らしさ」とは違うと見られてしまうんですよね。それで、「らしく」というのが何かって問われると、中国の士大夫が重んじる礼よりも、日常生活での他者との関わり方を、自分自身の責任で作り上げなさいというアンチテーゼが出てきます。

日本人にとっての中国思想と西洋思想の距離感

:少し話は変わりますが、この本が出たことの意味っていうのを考えてみたいんです。日本の現代知識人って、だいたい西洋思想やアメリカをベースにしているじゃないですか。でも、中国思想をベースにして現代のことを考えるような本が増えると、日本の知識人のスタンスやイメージがけっこう変わるんじゃないかなって思うんですよね。


施 光恒(せ てるひさ)/政治学者、九州大学大学院比較社会文化研究院教授。1971年、福岡県生まれ。英国シェフィールド大学大学院政治学研究科哲学修士(M.Phil)課程修了。慶應義塾大学大学院法学研究科後期博士課程修了。博士(法学)。著書に『リベラリズムの再生』(慶應義塾大学出版会)、『英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる』 (集英社新書)、『本当に日本人は流されやすいのか』(角川新書)など(写真:施 光恒)

西洋の思想や流行を身につけているのがインテリっていうと、日本のインテリってすごく薄っぺらいものになりがちですよね。だから、こういう本が出ることによって、日本の知識人の立ち位置や見方が変わってくるといいなと思っています。

中野:それは西洋に失礼ですよ(笑)。

佐藤:どんなに深い思想でも、学び方が表面的なら薄っぺらくなりますので。

:いや、西洋自体が浅薄だという意味ではもちろんありません。やはり西洋は日本から遠いですし、西洋をベースにしていると日本の知識人は頭でっかちになりがちで、日本の伝統や歴史に対して敵対するようなイメージが強いんですよね。でも、中国思想をベースにして現代日本を論じる形が増えてくると、伝統に対する知識人の関わり方が変わってくる気がします。日本の伝統に対する中国思想の影響は、西洋の影響に比べ、比較的大きく深いですから。

伝統や文化に対して、それと対決するのではなく、ある程度踏まえつつ、現状に合わせて違う方向から批判的に活用するような知のあり方が広まれば、日本のインテリのイメージがマシになるんじゃないかと思います。


中野 剛志(なかの たけし)/評論家。1971年、神奈川県生まれ。元・京都大学工学研究科大学院准教授。専門は政治経済思想。1996年、東京大学教養学部(国際関係論)卒業後、通商産業省(現・経済産業省)に入省。2000年よりエディンバラ大学大学院に留学し、政治思想を専攻。2001年に同大学院より優等修士号、2005年に博士号を取得。2003年、論文‘Theorising Economic Nationalism’ (Nations and Nationalism)でNations and Nationalism Prizeを受賞。主な著書に山本七平賞奨励賞を受賞した『日本思想史新論』(ちくま新書)、『TPP亡国論』(集英社新書)、『富国と強兵』(東洋経済新報社)、『小林秀雄の政治学』(文春新書)などがある(撮影:尾形文繁)

中野:施さんに反論するわけではないですが、西洋がわれわれの伝統から遠いのは確かですね。でも、中国思想がそれより近いかっていうと、私は等距離だと感じています。西洋思想にも共和主義があるし、ヒューム的な社会科学も孔子の「礼」の思想に似ていると私は解釈しています。一方で、知識人の存在が幅を利かせる国かどうかについて言えば、先ほど議論したように、中国と日本は全然違うと思います。

日本の儒学を学んだ人たちが西洋思想を受け入れたのは、儒学と西洋思想が等距離だったからかもしれません。

中国や朝鮮はより儒教に傾いていたのでかえって西洋の近代思想を受け入れられなかったという可能性がある。日本がいろんなものを咀嚼してきたのは、儒教をマスターしていたからではなく、どの舶来思想も、儒教と同じくらいの距離として見ていたからかもしれません。

だから、日本はアジアの一員だと言っているけど、実際にはアジアの一員でも西洋の一員でもない。私たちは変わった連中なんじゃないかと思っています。

中国思想を現実に応用する意義

:わかるんですが、私が言いたかったのは、日本には中国思想を勉強してきた長い歴史があって、明治以前から勉強してきたんです。だから、中国思想を長く勉強してきた蓄積が日本にはあるわけで、それによって明治維新以前とのつながりを知識人が取り戻せるかもしれません。知識人だけじゃなくてもいいんですけどね。こういう本がもっと出てくると、ちょっとスタンスが変わってくるんじゃないかと思っています。

中野:過去を安易に否定して恰好つける、という風潮は払拭できるかもしれませんね。

大場:お褒めいただきありがとうございます。日本における中国思想研究では、現実の社会分析に活かそうということが伝統的に少ない中で、こういう本を出せたことには意義を感じています。

佐藤:現実との接点を持たない思想は、生命力を失って形骸化するのがオチですからね。ぜひこうした本が増えてほしいところです。

中野:本日は大変勉強になりました。どうもありがとうございました。

(「令和の新教養」研究会)