団塊ジュニア世代、50歳会社員が直面した「危機」と模索し始めた「活路」とはーー?(写真:8x10/PIXTA)

1971〜1974年に生まれ、現在、働き盛り真っただ中の49〜52歳の「団塊ジュニア世代」。その数800万人、現役世代の中で人口ボリュームとして突出した層が今、大きな「岐路」に立たされています。

連載3回目は、コロナ禍に翻弄されながらも、人生を捉え直し、新たなキャリアに向かい始めた旅行会社勤務の50歳男性を描きます。

コロナ禍で大打撃を受けた旅行業界

「旅行って、人が生きていくうえで、必要かそうでないかと言えば、不要なものなのだと実感してしまいました。生活に余裕があってこその旅行なんですよね」

コロナ禍で最も打撃を受けた業種の一つである旅行業界。新卒以来、大手旅行会社勤務一筋の太田信太郎さん(50歳、仮名)にとって、全世界で起きた新型コロナウイルスの感染拡大は図らずも、自らの仕事の存在意義を正面から突き付けることとなった。

「これまでも外的要因に振り回され、業界の不安定さを感じたことはありました。2001年のアメリカ同時多発テロの時は、アメリカは危ないからとヨーロッパに行き先を変更する人がいました。中国で流行したSARSの際も、同様です。しかし、世界中どこも行けなくなったのは初めてでした。しかも、海外が駄目だから国内というわけにもいきませんでしたので」

受験戦争真っ盛りの中学時代に通っていた進学塾では、長期休み中の徹夜特訓授業などで鍛えられた。都内の有名私大に100%進学できる附属校に合格。そのまま、エスカレーターで、有名私大に進学した。1991年4月のことだった。

日経平均株価の最高値となる3万8915円を記録したのは、バブル下の1989年12月末。太田さんが大学に入学した1カ月前の1991年3月から、日本経済は長期の停滞局面に陥り、少しずつバブルは崩壊を始めていた。今に至る「失われた30年」が足音を立てていた。

会社にはタクシーチケットが束になって置いてあった

大学では、本格的にオーケストラを演奏するサークル活動に没頭し、楽器の演奏に打ち込んだ。それ以外に、与えられた重要な役割があった。数年に1回、欧米に演奏旅行に行くほどの大学公認のオーケストラのメンバーは約200人。公演先をアレンジし、現地のプロモーターと交渉を重ね、観客を集める「海外演奏旅行の企画係」として、オーケストラの運営に関わった。

太田さんが大学1年時、3つ上にあたる4年生が就職した頃は、まだバブルの香りが残っていたという。「彼らは、バブル時代そのもの。会社にはタクシーチケットが束になって置いており、新卒でも使いまくれたなんて話はよく聞きました。ウチの会社(旅行会社)でもあったぐらいですから」

経営学のゼミに所属していたため、周囲は金融業界志望ばかり。太田さんも自然と金融を第1志望として、各金融機関を受け続けたものの、思わぬ苦戦が続いた。他に、運輸や鉄道、広告代理店なども受けたが、軒並み落ち続けた。「全然駄目でした。めちゃくちゃ苦労しました」と振り返る。

金融で唯一内定を得たのは「たくぎん」の愛称で親しまれた都市銀行の一つで、1997年に巨額の不良債権を抱えて経営破綻した北海道拓殖銀行だった。数日後には、山一証券が自主廃業、翌1998年には日本長期信用銀行が経営破綻した。バブル崩壊の残滓が形を見せ始めていた。

「行ってたら、どうなったかと思うと、正直ぞっとします」と吐露する太田さん。拓銀の内定を得たうえで、試しで受けた旅行業界では連戦連勝、向かうところ敵なしだった。

「今で言うガクチカ(学生時代に力を入れたこと)を伝えると、面白いように内定が決まるようになりました」。オーケストラでの企画係の経験について、各社の面接担当者は食い入るように話を聞き、「すごいことをしてましたね」と称賛された。旅行会社からは、即戦力として期待された。面接は盛り上がり、とんとん拍子で話が進んでいった。

社会人となる1995年の年が明けて間もなくのころ、国内外を震撼させる大災害が発生した。死者6000人を超えた阪神淡路大震災。就職直前の3月には、通勤・通学客を無差別に狙い、都内の地下鉄路線に猛毒のサリンをまいた「地下鉄サリン事件」が起きた。何とも言いがたい社会不安が国中を覆う中、太田さんは大学を卒業し、大手旅行会社に就職した。

とんとん拍子で進んでいく太田さんだったが…

採用者数は、バブル世代の約5分の1にすぎない200人程度。震災の影響で、太田さんが希望していた出身地・関西の支店に新人を一人たりとも配属できるような状況ではなかった。九州や中部など希望していなかった初任地への配属に納得がいかず、会社から我慢するよう求められたものの、すぐに辞めてしまった同期の関西出身者が数人いたという。

「僕も含めてなんですけど、スタートの段階で結構つまずいた感じがありました」。都内の支店に配属された太田さんは、中央省庁の出張や調査事業とか海外案件を取り扱う担当を任せられた。数年後、入社面接時に伝えていた音楽関係のツアー企画への異動が叶った。音楽関係の旅行を担う専門チームが立ち上がるという幸運にも恵まれた。

太田さんのツキはさらに続く。社内の起業制度に応募した企画が通り、新たな仕事を始めることになった。映画撮影のロケ地誘致がもたらすメリットなどを自治体に持ち掛け、予算化を促し実現を図る。その映画が公開された後は、ロケ地を巡るツアーを開催し、地域の活性化につなげるというプロジェクトだ。

「ロケ地にお金を落としてもらうことによって、その地域が潤うような仕掛けです。誘致の段階からテレビ局や映画会社ともタイアップして話を進めました。地域とメディアをつなぐ立場のような感じです。10年間で100作品ぐらいに関わったと思います」

新規事業として成果を出すまでは大変だったものの、一度軌道に乗り始めてからは手応えを感じ、これまでの社内を中心とした人間関係から、視野も人脈も格段に広がった。日々の仕事は楽しく、充実していた太田さんに対し、社内からは評価の反面、やっかみに近い声が聞こえてくる。「同期とかから『いいよな、好きなことばかりやってさ』的なことをよく言われました。まあ実際、自分の思い通りというか、やりたいようにやってたのですが」。

国内外の旅行キャンセル申し込みが殺到

映画関係の担当に10年間で一つの区切りを付け、再び旅行関係の部署に異動した太田さんに、新型コロナウイルスの感染拡大は大きな影を落とした。

日本国内で感染者数が増え、感染流行国からの外国人の入国を拒否する「国境閉鎖」の動きが急ピッチで進んでいた2020年3月、欧州ツアーの添乗員として滞在していた都市から、何とか帰国した。

前後して、国内外の旅行キャンセル申し込みが殺到。「帰国してから、3月はキャンセルの仕事に忙殺されましたが、4月になったら何もやることがなくなりました」。4月の出社は2回にとどまる、ほぼ休業状態だったという。

ほどなくして、会社は希望退職を募ったが、太田さんは応募を見送った。ただ、インターネットを全面的に活用した旅行会社が続々と登場し、自分の会社に対し漠然と抱いていた危機感が心の中で具体化した。同時に、独立を見据えた将来設計の必要性を痛感するようになった。

「『働いていない自分を、本当にやばいな』と思ったんです。手に職をつけて、(組織に頼らず)自分でできる人間にならなきゃいけないと、真剣に思うようになりました」

出社の必要がないため、単身赴任先から家族の元に戻り、30歳で取得した社会保険労務士に箔を付けるべく、中小企業診断士の資格勉強を再開した。旅行の知識を忘れないためにも、eラーニングを怠らなかった。さらに、ロケ地巡りの経験をアカデミアとして肉付けしようと「コンテンツツーリズム」を学ぶため、大学院入学の準備を進めた。

もともと、旅行会社に終身勤め上げようとは考えていなかった。広がった人脈網から、転職の誘いが絶えることはなく、地域活性化コンサルタントとして起業を勧める声も幾度となく届いた。とは言え、専業主婦の妻と子どもを抱えた身だ。早期の独立は、およそ現実的なシナリオではなかった。しかし、そのトリガーを引いたのが、コロナ禍だった。

会社の先行きは見通せないまま、定年まであと10年

入学した東日本エリアの大学院では、時間のやりくりをしながら、平日夜の授業に出席。必要な単位を取得する一方、コンテンツツーリズムに関する論文を書き上げ、無事に2年間で修士号を獲得した。太田家では一時期、大学院生の太田さんを筆頭に、大学生から中学生までの子どもたちが机を並べて学問に励んでいた。

太田さんによれば、旅行会社出身の大学教授や准教授、非常勤講師は引く手あまただという。大学院で修士を修めた太田さんが今見据えているのは、会社勤めを続ける一方、大学の非常勤講師として教鞭をとりながら、自らの研究活動を続けることだ。一番下の子どもが大学に進む頃をメドに、地域活性化コンサルタントとして独立することをうかがっている。


団塊ジュニア連載、3回目です

「若い人を中心に『旅行なんか、行かなくてもよくね? 特に、海外なんか危ないし』という考え方が広がっているのは間違いありません。われわれの世代が、異文化に触れられる良い機会だと言ったところで、人々の考え方は変わってしまいました」

人生の折り返し地点である50歳目前の48歳で、コロナの激震に見舞われた太田さん。コロナで始まった旅行離れの流れは、元通りになることはないと確信しており、会社の先行きは見通せないままだ。定年まで10年を迎えた50歳という節目の今こそ、絶好の転機と受け止めている太田さんが、新たなキャリアをつかみ取り、自分なりの人生を切り開いていくことを願ってやまない。

本連載、『団塊ジュニアたちの「岐路」』では、自らの経験について、お話いただける「1971(昭和46)年〜1974(昭和49)年に生まれた方」を募集しております。取材に伺い、詳しくお聞きします。こちらのフォームよりご記入ください。

(小西 一禎 : ジャーナリスト・作家)