シンガポール政府は、まさにデジタルでイノベーションを起こしたといえる(写真:rasinona/PIXTA)

東南アジア諸国の中でもDXが進んでいる政府が、シンガポール政府だ。本稿では都市政策などにデジタルを活用しているシンガポール政府の事例を、経営共創基盤の共同経営者、坂田幸樹氏著『デジタル・フロンティア 米中に日本企業が勝つための「東南アジア発・新しいDX戦略」』より紹介する。

シンガポールにおける「デジタルツイン」

デジタルでまさにイノベーションを起こしたといえるのが、シンガポール政府である。そして、そこで用いられているデジタル技術が「デジタルツイン」である。デジタルツインとは、現実世界とデジタル世界を結びつけ、両者をリアルタイムで連携させる技術である。デジタルツインは、都市開発やインフラ管理など、さまざまな分野において利用されている。

シンガポール政府は数年前から、デジタル上に仮想のシンガポール、いわば「バーチャル・シンガポール」を作る取り組みを始めている。これは建物や地形、緑地や道路などの3Dデータが取り込まれた架空のシンガポールを作るというもので、この中で人の動きや交通状況、建物の変化などをシミュレーションすることができる。要は、デジタル世界の中に、実験可能なシンガポールがまるで双子(ツイン)のように存在しているのである。

このバーチャル・シンガポールには、現実世界のさまざまな状況がリアルタイムに反映されている。たとえば監視カメラから得られた交通情報や、駐車場に車が何台停まっているかなどのデータだ。さらには、地形や建物の向きなどから、ここで太陽光発電を行うとどのくらいの電力が得られるかといったシミュレーションすら可能だという。

シンガポール政府はこのデジタルツインを活用して、都市計画を行っている。たとえばデジタルツイン上に新しい道路を作ることで、本当に交通状況が改善されるかを事前にシミュレーションすることが可能だ。これがないと、実際に何年もかけて作った道路が、結果として交通渋滞を悪化させてしまうかもしれない。

デジタルツインにはさまざまなデータを連動させることも可能だ。たとえば、高齢者の自宅にセンサーを設置し健康状態をリアルタイムにモニタリングすることで、大病を発症する前に診療を受けられる可能性を高めることができるだろう。また、高齢者からの連絡がなくても、家族が異変を察知して駆けつけることも可能になる。

ただ、「高齢者をモニタリングして、異変を察知する」だけだと、これはオペレーション改善にすぎない。しかし、その結果として数万世帯から集めたデータを基に新たな製品やサービスを開発することにつなげれば、それはストラテジーやイノベーションへと昇華する。

東南アジアでスタートアップが林立する理由

たとえば、シンガポールのオマージュ(Homage)というスタートアップは、スマホやスマートウォッチ、監視カメラやドアに設置したセンサーなどでデータを収集して高齢者の在宅医療を支援している。認知症患者の事例でいうと、何らかの異常が察知されたら、医師や看護師が遠隔で診療をしたり、近隣の医師や看護師などがすぐに駆けつけたりすることができる。これは、新たな付加価値をユーザーに提供しているストラテジーといえる。

さらに、ここで得たデータを基に、高齢者向けの介護施設を新たに設計したり、高齢者が住みやすい街づくりをしたりすることも可能になるだろう。遠隔医療を提供する医師は、フィリピンやマレーシアから診療することも可能になるだろう。このような社会変革へと昇華することができれば、イノベーションと呼ぶことができる。

重要なのは、このデジタルツインは政府だけでなく、誰もが利用可能であるということだ。それにより、資本力がなくても誰もがイノベーションを起こすことができるようになった。

東南アジアでさまざまなスタートアップが立ち上がっているのは、まさにデジタル技術がイノベーションを促進させているからに他ならない。デジタル技術によって事業を展開するための基礎的なインフラが、すでに整備されているからである。

たとえば、かつては一定数の車両を保有しないと、タクシー会社を経営することはできなかったが、デジタルのインフラが整ったことで、配車アプリ1つあれば、個人が所有する車両を利用する形でタクシー会社と同様のサービスを提供することができる。2010年に創業したゴジェックがバイクタクシー事業を成功させることができたのも、まさにインフラがあったからである。

また、多数の部品サプライヤーを組織化して長い時間をかけて製造する必要があった自動車業界にも変化が起きつつある。電動化によってパーツがモジュール化されたことに加え、デジタル技術によって設計図の共有やサプライヤーとのやりとりがやりやすくなったことで、比較的容易に参入できるようになった。

たとえばベトナムの財閥であるビングループは、自社で電気自動車や電動バイクを製造するとともに、それらを用いたタクシー事業への参入を果たしている。

社会を変革する「イノベーション」が生まれている

小売業界も同様である。かつてはPOS端末を全小売店に設置して、データを連携しない限り売り上げを把握することはできなかったが、今はアプリを1つ開発すれば、スマホやタブレットを使用して売り上げをリアルタイムに把握できる。また、QR決済などを使用すれば、顧客データと紐づけることもできる。

その結果、街の小さな小売店で一気に変革が起きている。


図1─2はベトナムで広く使われている外食店向けのアプリだが、シンプルなインターフェースで、ITリテラシーが低くても使うことができる。これらのアプリは非現金決済にも対応している。こうしたアプリの出現で、ベトナムの小売市場は一気に変化し、現金を持ち歩かない若者も増えている。かつては過疎地に住んでいる患者の診察をするには、医師がわざわざ現地に出向く必要があったが、今はアプリで遠隔診療を実施して、その診断結果を基に患者の自宅に薬を届けることができる。

デジタル技術を単なるツールとしてとらえているのであれば、それは大きな間違いである。デジタル・フロンティアである東南アジアでは、オペレーション改善やストラテジーを実行する手段ではなく、デジタル技術によって社会を変革するイノベーションが生まれているのだ。

先ほどのシンガポールのデジタルツインが好例だが、デジタル技術を活用して生活者のデータを収集することで、結果として生活者の日々の生活を漸進的に改善するだけでなく、街自体の設計を抜本的に見直すことができるようになっているのである。

(坂田 幸樹 : 株式会社経営共創基盤(IGPI)共同経営者(パートナー)、IGPIシンガポール取締役CEO)