ロースは焼肉でもよく食べられる部位だが、実は定義が曖昧だった(写真: hungryworks / PIXTA)

焼肉店で注文する代表的な肉といえば、カルビとロース。

カルビは、朝鮮半島由来の言葉。佐々木道雄『焼肉の誕生』によると、1930年代ごろに牛アバラ肉を「カルビ」とよぶ習慣が広まったそうです。

一方のロースは、日本で生まれた和製英語。語源は英語のroastともいわれていますが、実際のところはよくわかっていません。その登場は古く、1872(明治5年)刊『肉料理大天狗』のシチユーリ(おそらくシチュー)レシピにおいてすでに、“此製はロース十きればかり細く切て”という材料肉としてのロースが登場します。

もも肉や、ランプ肉がロースとして売られていた

この焼肉店のロースについて、問題が持ち上がったことがあります。

“焼き肉店で牛肉の「もも肉」や「ランプ」を「ロース」と表示するのは景品表示法違反(優良誤認)にあたるとして、消費者庁は7日、全国焼肉協会(東京)に対し、不適切な表示をする業者に改善を求めるよう要請した。 ”(2010年10月7日 日本経済新聞)

精肉店におけるロースは肩ロース・リブロースなどの特定部位の肉を意味しますが、焼肉店におけるロースの定義は伝統的に曖昧なものでした。もも肉やランプ肉をロースとして売る店もあったので、消費者庁が、精肉店と同じ表示にするよう改善要請を出したのです。

なぜ焼肉店のロースの定義は曖昧だったのでしょうか。その背景には、かつて大阪で盛んだった、日本独自の焼肉文化があったのです。

佐々木道雄『焼肉の誕生』によると、朝鮮半島の焼肉文化が最初に渡来し定着した場所は大阪の猪飼野、現在の鶴橋駅東周辺地域だそうです。

“またカルビチプ(燒肉屋)センマイ屋等が到る処にあつて、これらの所へ行つてその一日の疲労を忘れて行くものも少なくないさうである。”(高権三『大阪と半島人』)

1938年に出版された、高権三による『大阪と半島人』には、猪飼野の朝鮮半島出身者たちがカルビチプ(焼肉屋)、センマイ屋で焼肉を楽しむ姿が描かれています。前者が現在のカルビなどの焼肉の基礎となります。


大阪、鶴橋駅周辺。焼肉通りがある(写真: Skylight / PIXTA)

佐々木は、カルビチブは“当初は、介添えの人が客の前で焼いて、皿に盛って食べるのを勧める形式のものだったと予想される”つまり朝鮮半島式で、店員が焼いて客に提供する方式であったとしています。

猪飼野にカルビチプ、センマイ屋が生まれた頃、同じ大阪では日本式の焼肉が行われていました。

日本式焼肉では、ロースが使用されていた

その日本式焼肉は自分で焼く方式。しかもそこでは「ロース」という定義が曖昧な肉が使用されていたのです。

役者の古川緑波は、作家の谷崎潤一郎に誘われて、大阪で日本式の焼肉を食べていました。猪飼野にカルビチプが登場した1930年前後のことです。

“谷崎潤一郎先生が、 兵庫県の岡本に住んで居られた頃である(中略)先生が「これから大阪へ出て、何か食おうじゃないか」と、誘って下さって、岡本から大阪へ出た。”
 “結局、宗右衛門町の本みやけへ行って、牛肉のヘット焼を食おうということに話が定って、円タクを拾って乗る。”(古川緑波『ロッパの悲食記』)

ヘット焼とは、鍋を使った焼肉のこと。鍋に牛脂をひいて焼く場合は「ヘット焼」、サラダオイルを使う場合は「オイル焼」、バターで焼く場合は「バター焼」という名で提供されていました。

“本みやけでは、ヘット焼と称して、ビフテキの小さい位の肉を、ジュージュー焼いて食わせるのを始めた。”(古川緑波『ロッパの悲食記』)

「本みやけ」は「いろは總本店」という明治時代からのすき焼きチェーン店が、高級ブランドとして展開したチェーン。戦前の最盛期には、いろは/本みやけ全体で近畿圏で20以上の店を展開していました。そこでヘット焼などの鍋焼肉が提供されていたのです。

この日本式鍋焼肉、現在も京都の老舗すき焼き店「三嶋亭」で「オイル焼」として提供されています。焼いた肉を独特のタレと大根おろしをつけて食べるのですが、すき焼きと同じく、最初は仲居さんが手本を見せて、その後は自分で焼く方式です。

自分で肉を焼いて食べる文化はすき焼き店の日本式焼肉に存在していました。それでは、焼肉店の「ロース」という曖昧な肉の定義は何に由来するのでしょうか?

“ロース 英語のRoastで、今のように、霜降りだの、ヒレ(フィレーの訛り)だのと、うるさいことは言わず、極上肉はすべてロースで片づけていた(中略)明治の言葉は、大ざっぱな表現をした。”(植原路郎『明治語録』)

風俗研究家の植原路郎によると、ロースはすき焼き店などで提供されており、明治時代からその定義が曖昧なものでした。部位に関係なく各々の店が上質な肉と考える肉を、ロースとして提供していたのです。

このロースの曖昧な定義は、戦後も引き継がれることとなります。洋食店「日本橋たいめいけん」創業者茂出木心護は、1978年出版の本において、すき焼き店のロースの定義のデタラメさを批判しています。

“有名なすき焼きやさんで看板に牛ロース一人前〇〇円と書いてあるので注文しました。皿に盛った牛肉を見ると、牛ロースでないので、「これは牛ロースではない、私は牛ロースを注文したのです」といったら、係の女中さんは平気な顔をして「店の牛ロースは上肉です」と返事しました。”(茂出木心護『うるさい男も黙る洋食の本』)

ロースの曖昧な定義が、焼肉店に持ち込まれる

戦前人気だったすき焼き店は、戦後になると次第に衰退していきます。かつて隆盛したいろは/本みやけチェーンも、2023年に最後の店が閉店してしまいました。

すき焼き店にかわるかたちで数を増やしていったのが、焼肉店でした。すき焼き店でヘット焼などの鍋焼肉を楽しんでいた日本人たちも、次第に網焼きの焼肉店へと移動していきました。

日本人客が増える過程で、かつてのすき焼き店の曖昧な言葉「ロース」と、客が自分で肉を焼く習慣が、焼肉店に持ち込まれたのではないかと思います。

(近代食文化研究会 : 食文化史研究家)