重度の近眼とされる於愛の方は、盲目の女性のサポートをしていました(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)

NHK大河ドラマ『どうする家康』第35回「欲望の怪物」では、家康を取り込んで海外侵略を一人企てる秀吉の姿が描かれました。第36回「於愛日記」では、のちに2代将軍となる秀忠を産んだ側室・於愛にスポットが。『ビジネス小説 もしも彼女が関ヶ原を戦ったら』の著者・眞邊明人氏が解説します。

於愛は遠江の武士、戸塚忠春の娘として生まれます。幼少期に父と兄が討ち死にしたため、母の祖父である西郷正勝に保護され、のちにその正勝の孫である義勝と結婚します。

義勝とのあいだには一男一女をもうけますが、ここで於愛に悲劇が起こりました。

1571年に、武田の秋山虎繁との戦いで夫の義勝が戦死してしまうのです。父、兄に続き夫までも戦で失った於愛は、再婚していた母のもとに身を寄せます。義勝とのあいだに生まれた男子は、まだ幼かったため家督を継ぐこともできません。

こうして途方に暮れていた於愛を見初めたのが、家康でした。

美しいと評判だった於愛の方

於愛は幼少期からかなりの美形として知られていたようで、その美しさは近隣でも評判だったようです。於愛は、形式を整えるために叔父・西郷清員の養女となり、1578年から家康に仕えることになりました。

このころの家康は武田勝頼との戦いが激化している最中でしたが、家康に仕え始めた翌年に、於愛はのちの2代将軍・秀忠を産みます。そして、まさにこの年に家康は嫡男・信康と正室・築山殿を処刑しました。さらにその翌年、於愛は四男となる忠吉を出産。

家康による於愛の寵愛ぶりが、よくわかります。

於愛は容姿ばかりでなく、性格も穏やかで誠実な人柄ゆえ家臣や侍女たちにも好かれていたようです。そんな於愛に、家康も信頼を寄せていました。

激しい気質と言われている築山殿とは正反対の性格だったようです。

さらに於愛は自身の目が悪かったこともあり、盲目の女性に強い同情を寄せ、そういった女性に対して手厚い保護を行っていました。のちに彼女が死去すると、大勢の盲目の女性が連日、寺門の前で彼女の後生を祈ったと伝えられています。


今年1月、大河ドラマ館のオープニングセレモニーに参加した家康の側室・於愛の方役の広瀬アリスさん(左から2人目/写真:時事)

謎に包まれた於愛の死

於愛は1589年に駿府で、この世を去りました。享年は28歳とも38歳とも言われていますが、彼女の出生に関する正確な記録がないため、はっきりしません。いずれにしても家康の側室たちは長寿が多かった中、彼女の死は早いものでした。

その死因は、病死と言われていますが、不穏な説もあります。それは築山殿の侍女が於愛に毒を盛って殺したというものです。築山殿の死から、すでに10年が経っていることもあり、その可能性は低いと思われますが、そういう説が出てくる背景はあります。

於愛は、正確には家康の側室と認められてからは西郷局と呼ばれていますが、彼女の死に当たって徳川家中の文書に彼女を「西郷殿」と記した記述が認められます。「殿」は正室を表す言葉であり、「築山殿」や、秀吉の妹で家康に嫁いだ朝日姫も「駿河殿」と呼ばれていました。

於愛は、たとえ一部であっても「殿」という敬称が使われていたことから、築山殿亡きあと実質的な正室扱いだったと考える説があります。息子の秀忠は、信康が死ぬと次男の秀康を差し置いて嫡男の地位を与えられました。

もしも於愛が家中で「殿」の称号を得ていたとするなら、親子ともども正室と後継者の座を築山殿と信康から奪ったことになります。もちろん於愛の評判を考えるに、彼女自身がそのようなことを望んだとは考えられません。

しかし家康が、そう考えたとしてもおかしくはないと思わせるほど、於愛への寵愛ぶりがあったことは間違いありません。そう考えると、築山殿の侍女が彼女を毒殺したという噂が出たとしても、おかしくはないでしょう。

朝日姫と同時期に命を落とした於愛の方

正室という意味では、記録に残る正式な家康の正室は秀吉の妹・朝日姫です。彼女は駿河殿と呼ばれ、駿河に滞在していたと言われます。

彼女は1586年に輿入れして1590年の正月に京で亡くなったとされ、享年は47歳。於愛より10歳以上年上です。

一方の於愛は1589年の5月に駿府(浜松との説もあり)で亡くなります。

このころ家康は、小田原征伐への準備の最中でした。

家康としては、娘が嫁いでいる北条氏をなんとか懐柔して上洛させたかったのですが、その願いは叶わず。また秀吉の北条氏討伐の意志も固く、家康としては忸怩たる思いを持っていたでしょう。その最中、実質的に妻と言っていい於愛を失い、形だけとはいえ正室の朝日姫も失うという不幸が重なった家康の心中はいかなるものだったのでしょうか。


家康は北条討伐に動いている時期に、於愛を亡くしました(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)

戦国時代の女の悲劇

於愛の死の実質的な原因は毒殺などではなく、やはり病死であると私は考えます。


記録には、於愛の死因は疲労や精神的な疲れからくるものであったとされ、いわゆる「気うつ」であると考えられます。とすると朝日姫と同じです。

早くから肉親を戦で失い、夫も戦で失い、家康のもとにあっても度重なる戦、家康自身、本能寺の変や小牧長久手の戦いなど、一歩間違えれば死に至る危機が何度もありました。

そのたびに於愛の精神は、少しずつ削られていったのでしょう。

1628年、すでに家光に将軍職を譲っていた秀忠は、朝廷に働きかけ、亡き母に従一位を贈りました。苦労を続けた母に対する秀忠の、せめてもの感謝の想いだったのでしょう。

(眞邊 明人 : 脚本家、演出家)