家康は浜松城を離れることに……(写真: unionjpn / PIXTA)

NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送で注目を集める「徳川家康」。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。家康を取り巻く重要人物たちとの関係性をひもときながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第40回は、豊臣秀吉に臣従した家康に課せられたミッションについて解説する。

著者フォローをすると、連載の新しい記事が公開されたときにお知らせメールが届きます。

17年過ごした浜松城を離れたワケ

天正14(1586)年10月27日、徳川家康はついに豊臣秀吉と大坂城で対面し、臣従を約束した。秀吉が家康に上洛を促す一方で、妹の朝日姫を家康の正室にと持ちかけたのが、同年2月である。そこから実に8カ月以上、上洛することなく秀吉に従わないスタンスで粘ったことになる。

12月4日には、家康は浜松城から駿河の駿府城へと居城を移している。家康が浜松城で過ごしたのは、実に17年にも及ぶ。そこから隣国の駿河に移った理由の1つとして、家康の領国が広がったことがある。

家康は長らく三河と遠江の2カ国を領国としてきたが、天正10(1582)年に武田勝頼が滅ぼされると、信長から駿河一国を与えられて、領国が3カ国となった。

その後、信長が「本能寺の変」で倒れたため、武田旧領である甲斐・信濃・上野をめぐって、家康と北条が対立。天正壬午の乱を経て、徳川が甲斐と信濃、北条は上野を得るかたちで、合意がなされることとなった。

駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5カ国を領有するにあたっては、浜松ではなく駿河を拠点とするほうが望ましいだろうと、天正13(1585)年から駿府城の築城が開始される。浜松城を知り尽くす石川数正が出奔したことも、居城の移転を考えた理由ではないかとする見方もある。


家康は浜松城から駿府城に居城を移した(写真:DAR Pictures / PIXTA)

しかし、居城の移転は以前から検討されながらも、ここになって急に進められたらしい。多くの家臣たちは自分の屋敷を移すことができなかったほどである。このタイミングでバタバタと移転が実行されたのは、家康が秀吉に恭順の意を示したことと無関係ではない。

家康に課せられたミッション

秀吉からすれば、ようやく自分に従うことを約束してくれたのだから、家康には大いに働いてもらわなければならない。11月4日、秀吉は越後の上杉景勝にこんな書状を送っている。

「家康が上洛してきて『すべて関白様にお任せする』と申してきた」

秀吉らしい誇張がなされている気もしなくはないが、おおむね間違いではない。家康の問題が片付いて安堵する様子が伝わってくる。秀吉は「家康の征伐を取りやめる」としながら、こんなふうに続けた。

「関東のことは家康と話し合い、諸事を一任することにした」

秀吉は関白になると、朝廷の権威をバックにしながら諸大名に向けて「私的な戦闘を禁じる」という停戦命令を出している。のちに研究者により「惣無事」と名づけられるこの政策を、家康は関東・奥両国において推進する任務を課せられた。

つまり、関東で相変わらず戦を繰り広げている、北条氏政と氏直の親子をなんとかしろ、ということ。そのためには、居城は浜松城より駿府城がよいだろう、という秀吉側の意向があって、家康は城を移転させることとなった。

秀吉への恭順から居城を移転させた家康だったが、その分、費用がかさむことは言うまでもない。そうでなくても、度重なる上洛に伴う諸費用がかかっており、このままでは財政が悪化してしまう。

そこで家康は緊急的な措置と、抜本的な改革の2つに取り組んでいる。緊急的な措置としては、天正15年と天正16年の2年にわたって、家臣の知行地、寺社領、蔵入地(直轄領)などに対して、納入された年貢から2%を徴収するというもの。「五十分一役」と呼ばれる課税であり、臨時的な増収策として行われることとなった。

そんな緊急措置をとりながら、天正17年から翌年にかけては、根本的な対策として「五ヶ国総検地」と呼ばれる大規模な検地に取り組んでいる。

直属の奉行人によって、郷村単位で厳密な検地を実施。検地に前後して「七ヶ条定書」を発布し、その原則にしたがって年貢・夫役を課して、年貢目録を作成することとなった。

「七ヶ条定書」では、まず「年貢の納入について納入証文は明瞭なのだから、少しでも年貢滞納があれば重罪であること」と釘をさしている。

続いて年貢だけではなく、労役や馬の提供などについても「戦陣に徴発される陣夫役としては、年貢200俵について、馬1匹と人足1人を出さなければならない」といったふうに明快なルールが決められた。

さらに領主が百姓を働かせる場合の基準ももうけられた。「領主が百姓を働かせるときは、家別に年間20日とし、また代官の場合は3日とする」と定めている。

7カ条の最後に注目

注目したいのは、7カ条の最後にこう付記されていることだ。

「以上、7カ条を定め置いた。もし領主がこの規定を守らなければ、目安を以て家康に申し上げるべきである」

年貢と労役を明確化することは「それぞれが追うべき義務を明らかにすること」であり、裏を返せば、それ以上の搾取を禁じることでもある。家康はこの定めによって財政再建を図ると同時に、領主が規定以上の負担を農民に勝手に課すことを防ごうとしていた。

内容的には秀吉による太閤検地に近いが、徳川として自主的に検地を行い、領内政治を整備した点は評価に値するだろう。

「リーダーはポジティブであるべし」

そんなふうに言われることがある。確かに、リーダーが後ろ向きな発言ばかりしていたら、誰もついていきたいとは思わないだろう。

だが、現実的ではない目標をぶちあげたり、直面する事態を軽視して楽観的なことを言ったりするばかりでも、下で働く者は不安になるに違いない。

家康はというと、いつでも来たるべき事態に備えて手を打つ慎重さを見せながらも、ポジティブなリーダーだった。この場合の「ポジティブさ」とは「直面する事態を直視し、状況を受け入れながら、現実的な手を早めに打つということ」である。

家康の家臣のなかには、秀吉に従うことに反対する者も多かった。それだけに、新たな問題に直面したときのリーダーの振る舞いは重要だ。領内政治を整備させるよい機会とばかりに、政策を打ち出した家康の姿勢には、家臣たちも頼もしさを覚えたことだろう。

家康も予測できない秀吉のムチャ振り

紆余曲折を呑み込みながら、前進する――。秀吉に臣従してもなお、そんな家康の問題解決力が発揮されることとなった。

しかし、天正18年(1590)7月13日、秀吉の命令によって、家康はせっかく整備した駿府から引き離される。そして不毛の大湿地帯である江戸へと、国替えされることとなるのであった。

【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
大石学、小宮山敏和、野口朋隆、佐藤宏之編『家康公伝〈1〉〜〈5〉現代語訳徳川実紀』(吉川弘文館)
宇野鎭夫訳『松平氏由緒書 : 松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
平野明夫『三河 松平一族』(新人物往来社)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館)
笠谷和比古『徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助くべし』 (ミネルヴァ書房)
平山優『新説 家康と三方原合戦』 (NHK出版新書)
河合敦『徳川家康と9つの危機』 (PHP新書)
二木謙一『徳川家康』(ちくま新書)
日本史史料研究会監修、平野明夫編『家康研究の最前線』(歴史新書y)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)
太田牛一、中川太古訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)
野田浩子『井伊家 彦根藩』(吉川弘文館)

(真山 知幸 : 著述家)