難関国立大に合格したものの…(写真:Fast&Slow / PIXTA)

浪人という選択を取る人が20年前と比べて1/2になっている現在。「浪人してでもこういう大学に行きたい」という人が減っている中で、浪人はどう人を変えるのでしょうか?また、浪人したことによってどんなことが起こるのでしょうか? 自身も9年の浪人生活を経て早稲田大学に合格した経験のある濱井正吾氏が、いろんな浪人経験者にインタビューをし、その道を選んでよかったことや頑張れた理由などを追求していきます。

今回は高校で1浪したのち、大学受験でも1浪して京都大学に合格したものの辞退。その後3浪で国立大学の薬学部に入ったものの、中退。さらに旧帝大の医学部を目指して再受験するも、惜しくも合格が叶わず上京し、2年間会社員を続けた後、30歳で早稲田大学人間科学部に入り直したけいぜと(仮名)さんにお話を伺いました。

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高校と大学で浪人を経験


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今回お話をお伺いしたけいぜと(仮名)さんは、高校受験・大学受験でそれぞれ浪人を経験しました。大学も中退し、再受験を経験しています。最後の受験を終えたとき、彼は30歳になっていました。

しかし、こうした度重なる浪人や再受験の経験は彼の意識を大きく変え、現在33歳で送っている大学生活を楽しめる要因になっているそうです。

はたして浪人生活は彼の人生をどう変えたのか、紆余曲折を経た現在の彼の人生観に迫っていきたいと思います。

けいぜとさんは鹿児島県川内市(現・薩摩川内市)に、サラリーマンの父親と専業主婦の母親のもとに生まれました。

「親が転勤族だったので、5歳で鹿児島県の鹿屋市、8歳で九州のある県の中心部に引っ越ししました。そこから高校を出るまでずっとその地域にいました」

両親ともに高卒であったこともあり、特に教育熱心だった母親は、子どもにいい教育をさせたいという思いが強かったようです。けいぜとさんは、算数が得意で、中学校に入るまでそろばんを習わせてもらいました。公立中学校に入学してからも、数学の成績は群を抜いていました。

「国語や英語が平均点くらいだったので、学年200人中だと80番くらいの順位でした。ですが、数学に関しては、つねに3番以内で、1番を取ることもありました」

そのまま勉強を続けたけいぜとさんは、地元で偏差値がそこそこの高校に進学します。しかし、ここの環境は彼にとっては苦痛だったようで、高校1年生の最初のころには高校に通えなくなってしまったようです。

「偏差値的には県内で6番手くらいのコースだったのですが、高校の治安が悪くて、勉強をする感じの空気ではありませんでした。僕もその気になれなくて、中間テストで下から5番目くらいを取ってしまって……。数学だけはできましたが、それだけでした。将来について、特に考えることもありませんでした。そのうち、ネットゲームにはまったのがきっかけで、学校に行かなくなってしまいました」

結局、学校に戻る気持ちになれず、夏休みに学校をやめてしまったけいぜとさん。

県内トップの高校を目指す

それでも、「もう一度高校に入らなければならない」という思いはあったため、親の勧めですぐに英進館という予備校に入ります。そこで彼は、数学の才能を教室長に見込まれ、県内トップの私立高校を目指すことを勧められます。

「僕は、英語の授業ではMary(メアリー)を『マリー』って呼んでしまうような学力なので、全部の科目でバランスよく取らないといけない公立高校に入学するのは厳しそうでした。ですが、教室長の先生が、難しい数学で差をつけてあとの4科目で及第点を取ることができれば、トップの私立高校に入れると言ってくださったんです」

難しい数学の問題を出すために、平均点が低くなる難関私立高校の出題傾向を熟知したアドバイスは、彼の適性にぴったりはまりました。

熱血指導の先生のもとで13時から22時までひたすら勉強させられる生活を送った彼は、高校入試の数学で96/100点を叩き出し、ほかの科目の平均点が4割でも受かる状況を作り上げ、見事合格しました。

こうして1浪で高校に入ったけいぜとさん。しかし、入って早々に問題が発生します。

「授業の進度が速すぎて、ついていけなかったのです。前の高校と偏差値が15ほど離れているので、国語や英語が全然できなくて大変でした」

日々周りに置いていかれないように、勉強を頑張っていましたが、それでもなかなか差を縮められず、なんとか得意の数学で粘って160人中90番程度の順位を確保していたそうです。

「この学校は通う子の環境や所得水準が全然違うんです。父親が東京で働いているため、母親が単身で九州に来て、子どもとマンションに住んでいる家庭もありました。

学力面もすごくて、僕の学年は100人しか定員のいない東京大学理科III類に入る人もいました。20分で、センターの数学で満点を取る子もいたくらいです。両親がどちらも高卒の家庭はうち以外になかったと思います。僕の中では、この成績でも耐えていたほうでした

周囲が当然のように東大を第一志望に設定している環境で、なんとか頑張っていたけいぜとさん。自身も現役の受験では東大を目指しましたが、センター試験は66%程度に終わり、理科II類に出願したものの歯が立ちませんでした。

「駿台模試で一度だけ東大のD判定を取れたのですが、あとはすべてE判定でしたね。周囲が受けるから自分も東大を目指しましたが、どうやったら受かるのかがわかりませんでした」

1浪で京大に合格したものの…

周囲の友達も何人か浪人を選択したからという理由で、県内の予備校で浪人を決断したけいぜとさん。

勉強を続けた結果、1浪目のセンター試験の結果は74%と前年よりもいい数字が出ました。この年は受験校を変更し、京都大学を受験したけいぜとさんは、無事合格することができました。

晴れて1浪で京大生になれる……と思いきや、彼はこの合格を辞退し、もう1年浪人することを決意します。

「人間健康科学科の作業療法学専攻を受けたのですが、予備校の京大の合格者を稼ぐために(記念で)受けたようなものですし、この年はたまたま受ける人が少なかったから、受かっただけなんです。自分の中では京大の中でも薬学部のほうに行きたいと思っていたので、『京大に行ける!』という嬉しい思いもあり悩んだのですが、結局翌年もう少し成績を上げて、京大の薬学部に入ろうと決意しました」

しかし、2浪目以降は悪循環に悩まされることになります。

「モチベーションがなくなってしまいました。1浪目も途中から予備校には行けなくなってしまったのですが、2浪目に入ってからは一度受かったことも、やる気の低下に拍車をかけてしまったんです。ずっと家でゲームをしていた1年でした」

結局、2浪目のセンター試験は前年を下回る70%程度に終わったために3浪目に突入しました。この年も似た生活を続けてしまい、再び前年よりセンターの得点率を下げ、69%に終わってしまいます。

けいぜとさんはもともと京都大学の薬学部を目指していたこともあり、ほかの国立大学の薬学部を探して出願しました。その大学には合格したため、進学することを決意します。

こうして、3浪の受験生活を終えた彼ですが、彼は志望校に届かなかった理由を、当時を思い出しながらこう分析します。

「目標がなかったことが大きいと思います。もともと僕は卒業した高校の前に通っていた県内6番手の高校くらいが適正値だと思うので、親が大卒ではなく実感がなかったので、焦りもなかったことがよくなかったと思います。たまたま地元に全国区の高校があって、自分の適性がそこに入るのに向いていたから入れただけなので」

こうして3浪をして国立大学の薬学部に進んだけいぜとさん。

その大学では、要領よく単位を取得しつつ、友達もできて、楽しい学校生活を送っていたようです。

先生のパワハラで、大学を退学

長く続けた受験勉強もこれにて終了し、国家試験を受けて資格を取得、安定した生活を送れる……はずでしたが、3年生になってから転機が訪れます。

「3年生になってから入る研究室選びを失敗してしまったんです。どこでもいいって感じであまり情報を集めたり検討をしたりせずに決めてしまったので、先生のパワハラがすごい研究室に入ってしまいました。それで休学して、辞めてしまったんです」

「今でも当時の大学の同期とは仲良くしているんですが、退学することになった当時は、彼らにとても心配させてしまいました」と申し訳なさそうに語ったけいぜとさん。高校1浪、大学受験3浪を経て入った国立大学を3年生で退学した彼は、すでに25歳になっていました。

「この先の見通しが立たず、自分の人生の中でいちばんのどん底でした。人生どうしようかと悩んだのですが、旧帝大に入り直したいと考えて、旧帝大だったら多浪の年齢も考慮して医学部に行きたいなって思ったんです。

正直、大学に入るまでの3年間の浪人は惰性でやっていました。でも、初めて受け身の勉強じゃなくて、自分の人生のために本気で1年半勉強をして旧帝大の医学部を目指そうと思ったんです

国立大学の薬学部を夏に退学した彼は、予備校に入って半年間必死に勉強し、力試しで受けた私立の兵庫医科大学に見事、一般受験で合格することができました。しかし、授業料の減免は認められなかったため、金銭面の問題で入学を断念します。

「大学を中退して半年で私立の医学部に受かったから、来年こそはいけるなと思い、福岡県で浪人をしました。すると27歳の年は、旧帝大の医学部でもA判定が取れるようになったんです。

旧帝大の医学部にも、本当に受かるかもしれないと思いました。今年ダメだったら、諦めて就職しようと思い、すべてをかけて挑みました。結果、センター試験でつまずいてしまい、東北大学医学部に出願したものの、落ちてしまって受験を諦めました」

人生でいちばん勉強した1年半を経て、諦めがついた彼は27歳で社会人になります。

彼は東京に上京して通信系の会社に就職し、29歳まで営業を2年間続けました。

コロナで受験の世界に引き戻される

しかし、ここで彼を受験の世界に引き戻す出来事が起こります。それが、新型コロナウイルスの流行でした。

30歳になった年、ちょうど日本でもコロナが流行し、仕事どころじゃなくなったけいぜとさん。3月に退職した彼は、9月まで半年間実家に戻り、家にお金を入れながら目的のない日々を送っていました。

「ニート生活を送っていたのでどうにかしないといけないと思い、改めて将来のことを考えました。そう考えるようになってからある日、Instagramを見ていたら早稲田大学人間科学部の広告が出てきて、面白そうだなと思ったんです。

通信会社で働いていたので、医療系の授業に興味が出て、データ科学の分野を勉強していきたいなと思っていました。働きながらお金を貯めて早稲田の人間科学部に入ろうと決意しました」


けいぜとさんは30歳で早稲田大学を目指した(撮影:今井康一)

彼にとってさらなる追い風となったのは、数学の試験の学力を生かせる入試方式が人間科学部にあったことでした。

「共通テストと数学の試験を合算する数学選抜という方式があったんです。700点満点で、共通テストの配点が140点、数学の配点が560点なので直前に数学をやれば受かるなって思い受験しました。

共通テストは74%だったのでE判定だったんですが、早稲田で受けた数学の試験で8割くらい取れたので、無事合格することができました。興味のある分野の勉強を卒業まですることができそうなので、よかったです」

30歳で早稲田大学に入学し、現在3年生となったけいぜとさんは、医療やデータ科学の勉強をしながら、大学生活を楽しんでいるようです。

人生のどんな経験もつながっている

彼は浪人してよかった理由を「自分を客観的に見る癖がついたこと」、受験勉強を頑張れた理由を、「仕事を通してやりたいことができたから」と答えてくれました。

「社会人経験のおかげで、興味を持って勉強することができています。年齢的にも宅建を取ったり、証券外務員の資格を取ったりしようと思っているのですが、データ科学の分野に進みたいとも考えています。この歳になって初めてやりたいことができたので、頑張りたいです」

紆余曲折の中で自分の道を見つけ、立ち上がった彼からは、人生のどのような経験もつながっているのだということを学ばせていただきました。

(濱井 正吾 : 教育系ライター)